【山岳紀行】

【山岳紀行】甲子旭岳 ― 晩冬の雪稜を越えて

北村 智明

三月、福島・甲子旭岳へ。前日の降雪に不安を抱えながらも、晴天の一日を得て十二名が山へ向かった。雪崩の気配、尖った雪稜、陽光にきらめく峰。冬季一般登山として臨んだこの山行は、静謐と緊張の入り混じる一日であった。


第一部 – 白の世界へ

まだ冬の気配が色濃く残る三月の朝、私たちは甲子温泉を後にした。気温は低く、雪は軽く締まっている。前夜の降雪が薄く積もり、足元に柔らかな感触を残していた。空は青く、風はない。これ以上ない登山日和であった。

我々の目指すこの甲子連山は、奥那須の山深い一角に、静かなる威厳をもって座していた。まず踏み越える甲子山は、展望の山として知られているものの、その先、赤土と岩を剥き出しにした甲子旭岳こそが、我々の真の目標である。赤崩山とも呼ばれるその峻峰は、残雪期には熟練の技術と覚悟を要求する厳しい雪壁を晒す。

樹林帯の登りは穏やかに始まり、やがて尾根に取り付くと雪面が次第に硬く変わる。陽光に照らされた枝々が白く光り、足音と呼吸だけが静かな森に響く。振り返れば、朝の陽を受けた那須連峰が遠く霞んでいた。

仲間達は十二名。うち三名は山スキーで進み、残りはワカンとアイゼンを携えて歩く。先頭を行くSが一定のリズムでトレースを刻み、私はその背を追いながら、自らの足音に耳を澄ませていた。雪と対話するような静かな時間である。

甲子山に着くと、眼前に旭岳の白い稜線が立ちはだかった。雲ひとつない青空に鋭い峰が浮かび上がり、その白い背にはわずかに風が走っていた。あの頂までの道は、容易ではない。そう思いながらも、私の心は静かに高鳴っていた。


第二部 – 雪崩と雪稜

旭岳への登りは、前日の新雪が厄介であった。風の通らぬ斜面には柔らかな雪が溜まり、足を踏み入れるたびに膝まで沈む。スキー組と歩き組は少し距離を保ちながら、それぞれのペースで進んでいた。雪面の様子を慎重に観察しつつ、高度を上げていく。

その時、雪が動いた。「流れた!」という声が風に乗って届く。Kの姿が一瞬、白い斜面に消えた。表層雪崩である。雪煙が上がり、空気が震える。すぐに全員が動きを止め、斜面の様子を見守った。雪面には幅広い破断面が走り、厚さはおよそ五十センチ。新雪層が剥がれ落ちた跡が、陽に照らされて鈍く光っていた。

幸い、Kは雪面から自力で這い出してきた。装備に損傷はなく、体にも異常はない。だが、その場の空気は一変した。雪の下に潜む力の存在を、私たちはまざまざと見せつけられたのだ。

スキー組は安全を期して撤退を決め、残る歩行組はルートを雪崩斜面から外し、稜線上へと切り替えた。リッジは鋭く、両側は深く切れ落ちている。足幅一歩分の雪稜にアイゼンの前爪を掛け、ピッケルでバランスを取る。雪は風で締まり、光を弾いて眩しい。息が白く凍りつく音が聞こえるようだった。

ときおり後続の気配を振り返る。赤いジャケットが陽光に鮮やかに浮かび上がる。その影が雪面に長く伸び、風の流れに揺れていた。私はただ黙々と、風と雪の狭間を歩いた。


第三部 – 頂の静寂

旭岳の頂に着いたのは正午を過ぎていた。風は弱く、陽光が雪面を照らす。甲子山の背後には、白く連なる稜線がいくつも横たわり、遠く那須の山々が青く霞んでいる。雪面は硬く締まり、踏みしめるたびに乾いた音を立てた。

私たちはそこで昼食をとった。湯気の立つカップ麺から漂う香りが、冷たい空気に溶けていく。誰も多くを語らなかった。あの雪崩の瞬間がまだ心に残っているのだろう。それでも皆の顔には安堵があった。冬の山において、生きて立つということの意味を、改めて噛みしめていた。

下山は慎重に行われた。稜線の影は長く伸び、雪面に午後の光が斜めに差し込む。風が強まる気配があり、私たちは早足で尾根を辿った。やがて樹林帯に入ると、雪が柔らかくなり、緊張が少しずつ解けていく。空はまだ青く、陽は傾いていた。

振り返れば、旭岳の白い峰が夕光に染まっていた。静かな一日の終わり。あの尖った雪稜を越えた記憶だけが、心の奥に冷たく光っている。

鋭い雪稜、静かな陽光、そして一瞬の雪崩。甲子旭岳は、冬の山が持つ厳しさと美しさを等しく見せてくれた。三月の澄んだ空の下、私たちは冬の終わりに立つ白い峰を確かに踏んだのである。

記録
• 日程:2023年3月19日(日)
• メンバー:12名(うち3名スキー組)
• 山域:甲子旭岳(福島県)
• ルート:甲子温泉 → 甲子山 → 旭岳 往復
• 山行スタイル:冬季一般登山(別パーティとして山スキー組あり)
• 天候:快晴、前日に降雪あり

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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