【山岳紀行】

【山岳紀行】鳳凰三山 ー 岩塔と五月の雪

北村 智明

五月初旬、南アルプスの鳳凰三山へ。緊急事態宣言下、天候図と睨めっこし、医療への負担を考えながら選んだ山域は、雪と氷の稜線であった。自問自答の末に決めた山行。夜叉神峠から南御室小屋へテントを担ぎ上げ、翌朝オベリスクを目指した一泊二日。葛藤を抱えながらも、なお山を求めた者の記録である。

第一部 − 葛藤の中で

今年の大型連休は、悩みに悩んだ。

緊急事態宣言が発令され、各地で外出自粛が呼びかけられている。県境をまたぐ移動は控えるべきだという声も強い。山へ行くべきか、行かざるべきか。一週間、天気図と睨めっこしながら、同時に自問自答を繰り返した。

仮に行くとしても、医療への負担を考えれば、リスクの高い山行は避けなければならない。登攀も、難路も、バリエーションルートも、山スキーも。怪我や遭難のリスクがある山行は、今この時期には許されない。緊急事態宣言の出ている県の山域も除外する。

そうして消去法で残ったのが、鳳凰三山であった。薬師岳、観音岳、地蔵岳の三山からなる稜線は、南アルプス北部の前衛に位置する。標高は二千八百メートル級。最高峰の観音岳からは、北岳をはじめとする白峰三山、甲斐駒ヶ岳の展望が素晴らしい。そして何より、地蔵岳のオベリスクという自然の造形美が待っている。

天候図を見れば、風速二十メートルという数字が日本中を覆っている。北アルプスも日本海側も諦めざるを得ない。しかし南アルプスなら、比較的穏やかな稜線歩きができる。

滑り込みで南御室小屋のテント場予約が取れたのは幸運だった。好山病の症状を緩和するには、やはりテントを担いでそこそこの高度を稼ぎたい。自分に言い訳をしながら、八時発のスロースターターで夜叉神峠登山口を出発した。

登山道は緩やかだ。新緑の樹林帯を黙々と登る。五月の陽光が木々の間から差し込み、足元を明るく照らしている。約一時間で夜叉神峠に到着した。小屋の前で一息つく。白峰三山の展望が素晴らしい。北岳の雪稜が青空に映え、まるで白磁の置物のように端正な姿を見せている。

夜叉神様にひたすらお祈りしながら杖立峠へと向かう。樹林帯の中の穏やかな道だ。しかし苺平の手前あたりから様相が変わってきた。残雪が踏み固められて氷化している。足元が慎重を要する状態になった。

辻山へ向かい、そこから小屋へ降りるはずが、何を間違えたか苺平へ戻ってしまう。笑うしかない。気を取り直して南御室小屋へと歩を進めた。

第二部 − 雪稜の夜明け

南御室小屋で受付を済ませ、テントを張る。風もなく穏やかな午後だった。小屋の脇には湧水が流れている。この水は南アルプスの天然水として知られ、白州のウイスキーにも使われているという。冷たく澄んだ水を喉に流し込む。南アルプスの懐から湧き出る恵みを、身体が喜んで受け入れた。

幕を張り終えた途端、気温が急降下し始めた。空が白く霞み、雪が舞い始める。

テントに軽く積もるほど降った。気温はおそらくマイナス十度近くまで下がっただろう。五月だというのに、この寒さである。南アルプスの気まぐれを改めて思い知らされた。シュラフに潜り込み、翌朝の早立ちに備える。

三時半起床。四時半に小屋を発った。昨日とは打って変わって寒くはない。程よい気温だ。ヘッドランプの光が雪面を照らす。踏み固められた道を辿りながら、徐々に高度を上げていく。やがて東の空が白み始め、稜線が黄金色に染まってゆく。朝焼けに浮かぶ山々の輪郭は、水墨画の濃淡のように静謐であった。

砂払岳を越え、薬師岳へ。風は風速十メートルほどか。稜線らしい風である。薬師岳小屋を過ぎ、観音岳へと向かう。ここからが長かった。稜線の起伏を繰り返しながら、オベリスクがある地蔵岳を目指す。

観音岳の北側は様相を変えた。雪と氷の急斜面になっている。慎重に足を運ぶ。一歩一歩、確実に。稜線の風が頬を撫でていく。

やがて地蔵岳のオベリスクが目の前に迫った。花崗岩の巨大な岩塔が天を突く。オベリスクとは古代エジプトの石柱を意味する言葉だ。明治の測量隊がこの岩峰を目にした時、エジプトの記念碑を想起したのだろう。風化と浸食が生み出した自然の造形は、人工の塔などとは比べものにならない迫力と品格を持っている。足を着く場所が踏まれて氷化しているが、岩の部分を使えば普通に登れる。最後の数メートルを這い上がり、オベリスクの上に立った。

白峰三山、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳。視界に広がる山々が圧倒的だ。風に吹かれながら、しばし佇む。五月の稜線に立てたことへの安堵と、この景色への感謝が胸を満たした。

第三部 − 帰路

下山は往路を戻る。気温が上がり始め、雪が腐ってきた。観音岳の斜面も朝とは違う様相だ。足元が緩み、慎重さが求められる。

薬師岳、砂払岳と辿り、南御室小屋へ戻った。テントを撤収し、遅い昼食を取る。陽射しが強く、暑さが身体を包む。

下山路は長かった。容赦ない日差しに体力を奪われながら、辻山、杖立峠と降りていく。樹林帯に入ると、ようやく陽射しから解放された。苺平で一息つく。

夜叉神峠を過ぎる頃には、完全に疲労困憊していた。それでも足は前に進む。午後三時前、夜叉神峠登山口に帰着した。

鳳凰三山らしい雪と岩の稜線。五月の気まぐれな天候。オベリスクからの展望。緊急事態下で選んだ山行は、それでも確かに山の喜びを与えてくれた。テントを下ろし、駐車場で深く息をつく。また山へ来られたこと、無事に下りてこられたこと。それだけで十分であった。


記録

  • 日程: 2021年5月3日(月)〜5月4日(火)
  • メンバー: 単独
  • 山域: 南アルプス・鳳凰三山
  • ルート: 夜叉神峠登山口→夜叉神峠→杖立峠→辻山→南御室小屋(泊)→砂払岳→薬師岳→観音岳→地蔵岳→往路を戻る
  • 行動時間: 1日目5時間36分/2日目10時間17分
  • 宿泊: 南御室小屋テント場
  • 天候: 晴れ時々雪
  • 特記事項: 稜線部に氷化した雪面あり
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北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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