【山岳紀行】一ノ倉中央カンテ ― 試験の翌日、岩壁へ

六月、谷川岳・一ノ倉沢。試験の緊張がまだ手の内に残る朝、私はKとともに中央カンテを仰いだ。梅雨の狭間に訪れた一日の晴天は、束の間の自由を照らしていた。岩壁に指をかけるたび、日常の影が遠ざかっていくのを感じた。
第一部 – 試験の翌日
六月十七日、土曜日。国家試験の会場を出ると、空は雲ひとつない快晴だった。翌日の天気予報も文句なし。この好機を逃すわけにはいかない。
試験勉強で忙しく、計画書の作成すらKに任せてしまった。急な誘いにもかかわらず、彼は快諾してくれた。試験は速報値で満点。これで心置きなく山へ向かえる。
午後十時、地元でKと合流。インフォメーションセンターの駐車場に車を停め、テントを張った。

翌朝、午前三時半に目を覚ます。四時出発、薄暗い道路を進み五時には一ノ倉沢出合へ。雪渓は六月としては驚くほど少ない。アプローチ道へ。雪渓に乗れる地点で取り付き、テールリッジ基部までは雪渓歩きとなった。

七時半頃、衝立岩を通り過ぎ中央カンテの取り付きに着く。別パーティのクライマーが言った。
「昨日、中央カンテで滑落事故があったらしいですよ」
一瞬、空気が重くなる。だがここまで来て引き返すわけにもいかない。後から来たパーティに先を譲り、我々は装備を整えた。
快晴ながら気温は高い。通常よりペットボトルを一本多く携える。Kが奇数ピッチ、私が偶数ピッチをリードする。午前七時四十四分、Kが一ピッチ目へ取り付いた。
第二部 – 岩壁を登る
一ピッチ目、グレードⅢ+、四十メートル。Kがトラバースからフェースへ。動きが硬い。私も無線の操作に手間取り、息がまだ合っていない。フォローで登るがトラバースが怖い。フェースは濡れている。昨日の雨の残りだろう。慎重に足を置き、ホールドを確かめながら進む。

二ピッチ目、グレードⅢ、五十メートル。緩いフェースを登り、凹状ルートと別れる。ここで中央カンテの直登ルートに入った。残置が見当たらず、細い灌木を利用して中間支点を取った。

三ピッチ目、グレードⅣ、四十メートル。バンドからカンテへ。難しくはない。だが、ここでも細い灌木で中間支点を取るしかなかった。

四ピッチ目、グレードⅢ、五十メートル。南稜テラスからよく見えるあのカンテだ。快適なピッチで岩壁にはハーケンが点々と残置されている。それらを要所で使い支点を取りつつ攀った。
五ピッチ目、グレードⅣ、三十メートル。ルンゼからチムニーへ。
「濡れてて靴が滑る!」
花崗岩は濡れると滑りやすい。濡れたルンゼ内はハーケンが連打されている。緊張が伝わってくる。時間がかかった。

六ピッチ目、グレードⅢ、四十メートル。フェースを左上し、バンドを右上する。岩が脆い。ホールドに手をかけた瞬間、岩が剥がれた。心臓が跳ね上がる。慎重に、慎重に進んだ。

七ピッチ目、グレードⅤ、三十メートル。核心部である。フェースとコーナークラック。動きは慎重だ。滑りやすく、ホールドも細かい。それでもKはフリーで抜けた。私は核心で迷わずA0した。

八ピッチ目、グレードⅣ、三十メートル。スラブを左上してからルンゼ状へ。意外に悪い。終了点は狭いテラス状になっている。

九ピッチ目、最終ピッチをKがリード。グレードⅢ、四十メートル。草付きの凹状からフェースへ。

トポの挿絵とは異なるラインらしい。直上ではなく左上へ進む。ルートが違うからかフェースはグレードⅢとは思えぬほど悪い。
午前九時五十五分、大量の捨て縄が残置されている懸垂地点に到着。登攀終了である。安堵が胸に広がった。
第三部 – 下降、そして
烏帽子の肩から空中懸垂に入る。身体が宙に浮く瞬間、わずかな恐怖と開放感が交錯する。着地後、ルンゼ状を対岸へ渡る。草付きとヤブの境を慎重に見定め、ルートファインディングを誤らぬように進む。

ダイレクトルートの終了点から踏み跡のないヤブを横に移動。抜けた先の岩場には南稜から国境稜線へ抜ける支点があった。そこから五メートルほど下ると、六ルンゼの下降点に達する。
以後は南稜と同様に懸垂下降を繰り返す。南稜二ピッチ目終了点からテラスへ降りたとき、問題が起きた。
ザイルが一ピッチ目の岩角に引っかかったのだ。
引いても動かない。疲労の滲む身体に苛立ちが募る。時間は午後四時を回っていた。
「もう一回登るしかないか」
おかわり南稜一ピッチ。再びザイルを結び、引っかかったザイルを回収するために登り返す。約一時間のロスだった。
ようやくザイルを回収し、再び下降。最後の懸垂で再度南稜テラスに降り立つ。午後七時三十九分。空は薄闇に沈みつつあった。
午後七時五十六分、一ノ倉沢出合に戻ってきた。ヘッドランプを点け、出合へと歩を進めた。午後九時五分、インフォメーションセンターの駐車場に帰着。
前夜と同じ場所にテントを張る。今回も残業になってしまった。
テントの中で、Kと二人、疲れ切った身体を横たえる。好天に誘われて挑んだ一ノ倉沢中央カンテ。事故の影に一抹の不安を抱きながらも、核心を越え、最後のトラブルも切り抜けた。
試験は満点だった。この山行もまた、無事に終えられた。それで良しとしよう。
谷川の夜は静かだった。

【記録】
- 日程:2023年6月18日(日)
- メンバー:K(2名)
- ルート:一ノ倉沢烏帽子沢中央カンテ
- グレード:Ⅳ級下(ピッチⅤ級)
- ピッチ数:9ピッチ
- 天候:快晴
- 宿泊:谷川岳インフォメーションセンター駐車場(テント泊)