【山岳紀行】烏帽子岩左稜線 ー 花崗岩の稜線に刻む自己完結

五月の連休、信州と甲州の境に位置する小川山は、静かな新緑の光を浴びていた。今回の山行は、この山域を代表する岩壁、烏帽子岩左稜線に挑む一日の記録である。登攀仲間であるWと私、二名は、岩場が持つ特有の緊張感と解放感を求めた。この長大な花崗岩の稜線に、技術と精神の集中を要求する自己完結の試練を求めた。
第一部 – 岩塊への接近と高まる期待
廻り目平の夜明け
五月五日の朝、廻り目平キャンプ場は、まだ夜明け前の冷気の中にあった。前日までの遠征の疲労は残るものの、身体は岩へと向かう期待に満ちている。朝日がブナの森に差し込む頃、登攀仲間Wと私は、静かにザックを背負い、烏帽子岩へと向かった。
小川山は、その質の高い花崗岩の岩壁から、日本のヨセミテとも称されるクライミングの聖地である。この山域には、フリークライミングのルートからアルパイン的な長大なマルチピッチまで、数百に及ぶ登攀ルートが刻まれている。その中でも、烏帽子岩は小川山を象徴する花崗岩の塊であり、その岩肌は硬く、垂直に切り立っている。
目指す左稜線は、多くのピッチを連ねる長大なルートであり、その日の天候と自身の体力が許す限り、岩と向き合い続けることを強いる。今回の山行の動機は、その自己完結性にある。整備された人工壁ではなく、ルートも終了点も自ら見定め、安全を確保しながら岩との対話を深めること。これこそが、アルパインや沢登りにも通じる、真の山行の訓練であると私は考えていた。

取り付きの空気
キャンプ場から踏み跡明瞭な道を辿り、烏帽子岩の取り付きへ。岩壁が目の前に迫ると、その量感に圧倒される。辺りにはケルンが積まれ、烏帽子岩を仰ぎ見ながらガレ場を詰めると、程なくして基部に到着した。既に先行者の姿も見え、緊張感が高まる。

ハーネスを装着し、カム、ナッツといった登攀具を身につける。装備の重さが、これから始まる試練の重さを暗示しているようであった。 一ピッチ目は、その凹角(5.6)から始まった。これはまだ岩との距離を探るための挨拶のようなものであったが、続く二ピッチ目のクラック(5.7)をリードした際には、指先の感覚が、岩の細かなテクスチャーと一体になるのを覚えた。沢登りが冷たい水とヌメりとの闘いであったのに対し、この五月の登攀は、乾いた花崗岩の摩擦を信頼する行為である。新緑の山の風は心地よかったが、身体の内側には、既に集中力の炎が灯っていた。

第二部 – 縦横に試される技術と精神
序盤の試練
ルートは時に簡単なクラックを刻みながら、我々を上へと誘う。三ピッチ目(5.6)はフォローで難なく通過したが、四ピッチ目(5.8)で核心の一つが訪れた。位牌岩の上部を直上するこのルートは、一手が嫌らしい。体重移動の僅かなズレが致命傷になりかねない緊張感の中で、私はホールドを見極め、岩を掴む。

五ピッチ目、六ピッチ目と続く岩稜歩きや樹林帯(5.4)のピッチは、登攀のスピードを維持しつつ、身体を休ませるための静かな時間であった。

しかし、七ピッチ目以降、稜線の岩は再び牙を剥き始めた。
八ピッチ目(5.5)でカンテを登りきると、急に視界が開け、思わず息を飲む。眼下には深い緑の谷が広がり、我々が急速に高度を稼いできたことを実感する。この解放感は、登攀者のみが味わえる特権であり、疲労が溜まり始める身体に新たな活力を与えてくれた。

恐怖のトラバースと休憩
九ピッチ目(5.7)は、チムニーからカンテへと繋がるルート。見た目ほどの困難はなく通過できたが、最も神経を削られたのは、十ピッチ目(5.6)のトラバースであった。

このトラバースでは、左側が鋭く切れ落ちた岩場を、屈みながら慎重に進む。右側のクラックに中間支点をとりつつ通過するその一連の動作は、グレードこそ高くないものの、精神的な恐怖を植え付けた。足元の岩を信じ、この恐怖心を押し殺すのではなく、冷静に受け止めることで乗り切った。

稜線の座れる場所を見つけ、昼食をとる。この短い休憩が、午後の核心部への再集中には不可欠であった。眼下には、後に我々が辿るガマルートが深く切り込んでいるのが見えた。先行パーティーに登攀を促し、私は短いながらも内省の時間を持った。

第三部 – 歓喜の頂と下山への決断
ハンドクラックの歓喜
午後に入り、ルートは再びクライマックスへと向かう。十一ピッチ目(5.6)は二ノ楯と呼ばれる、写真映えする歩きやすいリッジ。そして、先行パーティーが時間をかけていた十三ピッチ目(5.7)こそが、このルートのハイライトの一つであった。

それは、見事なまでのハンドクラックであった。登攀の技術とカムの知識を試されるルートであり、私はここで0.5番から2番のカムを的確にセットし、岩との一体感を味わいながら登りきった。見た目の厳しさに反し、手掛かりは豊かであった。花崗岩が与えてくれる、ジャミングによる拳と岩が一体となる確かな固定感が、登攀の歓びを深くしてくれた。ルートの最終地点である三ノ楯(烏帽子岩本峰)に到達したとき、身体的な疲労は極限に達していたが、それ以上に登攀者としての純粋な歓喜が全身を満たしていた。

撤退の判断
山頂直下で、我々は最後の課題、懸垂下降に直面した。先行パーティーの懸垂場所の間違いによる混乱を目の当たりにし、時間が刻々と過ぎていくのを感じる。彼らの誤りにより時間を浪費したことは不運であったが、安全な下山を最優先せねばならない。
最終的に、我々は時間切れと判断し、エスケープルートへと繋がる十メートルの懸垂下降を選択した。この撤退の判断こそが、登攀において最も重要な決断である。山頂を極めることへの執着よりも、無事に帰還すること。これが、私が山に誓う唯一の誓いである。
明瞭な踏み跡を辿って下山し、午後五時三十分にキャンプ場へ帰着した。次は、今回見送ったワイドクラックとチムニーに必ず挑もう。
日本のヨセミテと称される小川山、その烏帽子岩左稜線は、技術、体力、そして何よりも判断力を試す、長大な登攀であった。花崗岩の確かな手応えと、稜線が与える圧倒的な解放感は、登攀者のみが味わえる純粋な喜びである。今回の山行は、自己の能力と自然の制約を深く理解する機会となり、撤退という重要な決断を含めて、次なる挑戦への確かな糧となった。この岩壁は、我々の登攀の礎を築いてくれたのである。
記録
• 日程: 2023年5月5日(金)
• メンバー: 2名(私、W)
• 山域: 小川山(廻り目平キャンプ場発着)
• ルート: 廻り目平キャンプ場 → 烏帽子岩左稜線(1P〜14P) → エスケープルート → 廻り目平キャンプ場
• 行動時間: 約11時間30分(5:58〜17:30)
• 宿泊形態: 廻り目平キャンプ場にテント泊
• 天候: 晴れ
• その他特記事項: トラッドマルチクライミング。全14ピッチ。最終部で懸垂下降を誤り、エスケープルートへ。