【山岳紀行】広河原沢右俣 ー 冬の氷瀑に挑む

暖冬に翻弄されたアイスクライマーたちが、南八ヶ岳・広河原沢右俣へ向かった。武藤返しの滝、そしてクリスマスルンゼ。一月の氷壁に挑んだ二日間は、フォールと凍結、そして仲間との時間に満ちていた。厳冬期の氷瀑登攀を綴る山岳紀行。
第一部 ー 遠征の始まり
この冬は暖冬であった 。それは、氷壁に取り憑かれた我々にとって、一つの呪いに等しい 。雪はあっても、水は凍らぬ 。東北の山々の氷瀑は無情にも姿を消し、アイスクライミングを志す我らは、より確かな凍結を求めて、南へ南へと追われる旅を強いられた 。広河原沢右俣へ向かう旅路は、その逃避行の果てであった 。
深夜一時、車は東北を離れ、中央道を西へとひた走る 。車内には眠気と、そして未だ見ぬ氷瀑への切なる期待が交錯していた 。私は窓の外を流れる闇をただ見つめるばかり 。この一月の氷が、我々の渇望を満たしてくれるか否か、不安が胸中に燻っていた 。
午前七時三十分、車はようやく船山十字路の駐車場に滑り込んだ 。身を切るような低い気温ではあったが、空は嘘のように澄み切っていた 。この山域の厳しさが、自然の偉大さが、我々を試しているように感じられた 。装備を整え、八時に入山 。K、T、A、Oという、この道において信頼を置く五人の仲間と、私は粛々と歩を進めた 。

落葉松の林を抜け、登山道の様子は穏やかであった 。やがて雪が深まり、アプローチは思いのほか長かった 。南稜広河原の取付を経て、我々は本日のベースキャンプ地、中央稜の取付へと足を運んだ 。標高を稼ぐにつれ、谷は徐々にその身を深く狭め、冷気に満ちた氷瀑の気配が、我々の頬を打ち始めた 。

午後三時四十六分、我々はベースキャンプに到達した 。テントを設営しながら、氷の状態はどうか 。フォールへの不安を抱きながらも、私の心はすでに青白い氷壁を仰いでいた 。テントを張り終えてなお、太陽は僅かながら残照を留めていた 。その残された時間を利用し、我々は武藤返しの滝へ向かうことにした 。

第二部 ー 武藤返しの滝、そして宴
武藤返しの滝は、広河原沢右俣において一つの顔である 。高さおよそ十八メートル 。青白い氷が岩壁を覆い、その威容は厳粛なまでに我々の前に立ち塞がった 。

私がリードで取り付く 。アイゼンの前爪を氷に蹴り込み、二本のアックスを振る 。ガツンという鋭い音が、谷底に響き渡った 。手応えは良好である 。慎重にスクリューをねじ込みながら、着実に高度を稼いでいく 。傾斜は緩やかではなかったが、ホールドは豊富である 。私は呼吸を整え、一歩ずつ、静かに登高した 。氷瀑の中に立つことで、初めて得られる静寂、そして自然との対話があった 。
十数分後、私は滝の上部に達し、トップロープを設置した 。仲間たちは順番に登り、氷の感覚を確かめていった 。二巡ほど登攀を繰り返すうちに、午後四時を回り、太陽は西の稜線へと傾き始めた 。
この日の核心たるクリスマスルンゼの登攀について、その決行の可否を口にした 。時刻はすでに午後四時を優に過ぎている 。私は空を仰いだ 。まだ僅かな明るさは残されていたが、この時期の山の日の短さを思えば、新たな登攀を始めるには時が足りぬ 。私達は、明日へ全てを懸けるべきであると判断した 。
テン場へ戻ると、外気は零下に沈んでいった 。谷底は急速に冷え込んでくる 。しかし、五人が肩を寄せ合った狭いテントの中は、KとOが作るシチューの湯気と、弾む会話により、暖かく満たされていた 。私は身体の疲労を感じながらも、明日への集中を怠らなかった 。
明日核心部を無事に登れるか否か、私はその不安を打ち消すように、登攀こそがこの遠征の責務であると、心の中で固く答えた 。クリスマスルンゼの二ピッチの氷壁を登り切らねば、この暖冬を乗り越えた意味がない 。私はテントの隙間から、凍てついた夜空を見上げた 。星々が瞬く。明日の天候は我々に味方するであろう 。
第三部 ー クリスマスルンゼ、そしてフォール
翌朝、我々は決意を新たにし、再びクリスマスルンゼへ向かった 。この一月の氷を追い求めてきた、我々アイスクライミング難民たちの集結地となっていたのは、想像に難くない 。我々は静かに順番を待ち、先達のクライマーが去った隙を縫って、一ピッチ目に取り付いた 。

一ピッチ目は私がフォローで登った 。氷は固く、アックスの手応えもまた、昨日の滝と同様に心地よい 。高さ十二メートル、傾斜はおよそ七十度 。難なく登り切った。
問題は、核心たる二ピッチ目であった 。
中央のラインは、絶えず水が滴り落ちる、脆い氷を纏う嫌らしいルートであった 。私はこの氷質が薄い箇所が多いラインをリードで選んだ 。慎重にアックスを振り、スクリューを打つ 。高度を稼ぐにつれ、全身の緊張が極限まで高まっていく 。

そして、それは突然に訪れた 。
アックスを振り込んだ瞬間、狙った氷が根こそぎ剥がれた 。水を含んだ脆い氷を見誤った 。身体が宙に浮き、谷底へと引き寄せられる 。フォールである 。
冷や汗が背中を伝った 。しかし、もう片方のアックスが、辛うじて効いていた 。私はテンションを掛けることなく、この危機を乗り越えた 。それは、ただの幸運ではなく、山が与えた一瞬の僥倖であった 。
下から、やや切迫した声が響く 。
「大丈夫だ 」と答えたが、心臓の鼓動は激しかった 。私は体勢を立て直し、今度は氷の奥底にある固い層を探す 。水滴を避け、慎重に、ゆっくりと、確実に登りきった 。
ようやく上部に達し、安堵の息をついた時、新たな試練が待ち構えていた 。
ザイルと装備、そしてウェアが、水滴により完全に凍結していたのである 。懸垂下降の際、凍りついたザイルはまるで鋼の針金のように撓み、操作に難儀を極めた 。指先の感覚は冷気に奪われ、何度も手を温め直さねばならなかった 。

されど、我々は全ての核心部を乗り越え、無事に下降した 。テントを撤収し、午後四時に長い下山路へ 。疲労が蓄積し、足取りは重い 。フォールという一つの失敗はあったが、暖冬の中で探し求めた核心部を突破した、充実感に満たされていた 。その達成感こそが、この旅の全てであった 。
深夜零時、我々は下界の喧騒へと帰還した 。
この広河原沢右俣で我々が対峙した氷瀑は、南八ヶ岳らしい厳しさと、そして崇高な美しさを併せ持っていた 。
フォールの瞬間、「ああ、やってしまった」という後悔と己の未熟さを感じたが、それもまた登攀の、生の経験の一部である 。完璧なクライミングを求めながらも、その不完全さを受け入れること 。失敗から学び、次なる氷壁へと静かに向かうこと 。
暖冬に翻弄され続けたこの冬の旅路は、武藤返しの滝の青白い威容、クリスマスルンゼの水を含んだ脆い氷、そして凍てつく夜に仲間と囲んだ暖かな灯火 とともに、私の記憶に深く、鮮明に刻み込まれた。山は常に、我々に多くを語りかけてくる 。
記録
- 日程: 2023年1月21日(土)〜22日(日)
- メンバー: 5名(私、K、T、A、O)
- 山域: 南八ヶ岳
- ルート: 船山十字路 → 南稜広河原取付 → 中央稜取付(テン場)→ 武藤返しの滝・クリスマスルンゼ → 下山
- 行動時間: 1日目 7時間44分 2日目 記録なし
- 宿泊: テント泊
- 天候: 晴れ
- 難易度: WI3〜4