【山岳紀行】岩魚止沢 ー 九月の渓を遡る

九月初旬、朝日連峰の岩魚止沢へ。雪渓やゴルジュへの不安を抱えながら入渓した二日間の山行は、朝日らしいV字の谷と連瀑帯、そして詰めの開放感に満ちていた。沢屋として綴る、秋の渓谷紀行。
第一部 – 不安を抱えての入渓
九月九日、夜明け前の朝日鉱泉ゲート。車中泊の窓を叩く冷気に目を覚ます。木曜日の仕事を終え、前日の長い移動を経ての車中泊。軽く疲労が残っていた。
朝日連峰の岩魚止沢。日本屈指の美渓として知られるこの谷に挑もうとしていた。雪渓に阻まれはしないか、ゴルジュを抜けられるのか。胸中は決して穏やかではなかった。
午前六時四十分、SとMの二人の仲間と共にゲートを発つ。朝日鉱泉を過ぎ、中ツル尾根へと続く道を辿る。何度来ても朝日の吊り橋は心もとない。足元の朝日川が深い谷底で白く泡立っている。
樹林帯の薄暗い道を進むうち、登山道に大株のトンビマイタケを見つけた。ブナやミズナラの倒木に発生する食用茸で、マイタケほど知られていないが味は劣らない。見事な房である。しかし今は先を急がねばならぬ。後ろ髪を引かれながら、帰路に採取することを心に決めて先へ進んだ。

朝日川の流れに沿って歩を進める。この川の魚影は薄い。朝日俣沢は禁漁であるが、それは保護のためというより、もはや魚が居ないからこそ竿を持っていくだけ無駄なのである。
午前八時半、二股出合に到着した。黒俣沢と朝日俣沢の合流点である。出合には明瞭な踏み跡があり、容易に河原へ降り立つことができた。
SとMは装備を整え休息している。私は竿を手に、一人黒俣沢へと足を踏み入れた。朝日俣沢は禁漁であるが、黒俣沢の魚影は普通か、やや薄い程度だ。朝日俣沢は、かつて潜水艦級と称された四十センチを超える岩魚が棲息したというが、今やその面影はない。しばしの釣りを楽しんだ後、二人の待つ出合へ戻った。これより遡行するのは朝日俣沢である。前日に降った雨の影響を案じていたが、水量は平水かやや少なめであった。泳ぐほどの深みはなく、臍のあたりまで浸かって進める程度だ。

装備を整え、朝日俣沢へと足を踏み入れる。花崗岩の河床は予想通り滑りやすい。ラバーソールの靴底が、濡れた岩を慎重に捉えていく。V字に切れ込んだ谷の両岸には、まだ夏の名残を留めた緑が濃く茂っている。九月とはいえ、渓谷の空気はひんやりと肌に纏わりつく。
ヌメりを帯びた岩を見極めながら、一歩ずつ高度を上げていく。岩魚止の名を持つこの谷も、今は静かに迎え入れてくれた。滝を目指し、三人は黙々と歩を進めた。
第二部 – 渓の奥へ
朝日俣沢を遡行し始めてしばらくは、穏やかな流れが続いた。へそのあたりまで水に浸かりながら進む。快適に登れる小滝が続き、巻きを要するような困難な場所はない。
上ノ大沢出合手前、滝というほどでもない小さな段差が現れた。Sがへつって通過しようとした瞬間、バランスを崩してドボンと水に浸かった。冷たい水が一気に身体を包む様子が見える。それを見て私は巻くことにした。仲間の笑い声が谷に響いた。

やがて谷は次第に狭まり始めた。両岸の岩壁が迫り、朝日連峰らしいV字ゴルジュの様相を呈してくる。水音が谷に反響し、岩肌には苔が濃く張り付いている。九月とはいえ、谷底には蚊が多い。メジロがいないのが唯一の救いであった。
標高を上げるにつれ、滝が現れ始めた。最初に立ちはだかるのは六メートルのハング滝である。オーバーハング気味の岩壁から水が落ちている。水線左を試登するが一手が決まらない。ザックを投げ捨て空身で取り付く。秋のヌメった花崗岩に慎重に足を置き、ホールドを探りながら登る。

続いて六メートルのテロテロした滝。水量は少ないが、どうみても取り付けない。右岸から巻くことにした。七メートル滝も同様に左岸を巻き、残置された捨て縄から懸垂で下る。ザイルが濡れた岩肌を擦る音が響く。

十メートル滝が前方に姿を現した。左のスラブ状の左壁を登攀する。傾斜は緩いが、岩の上に砂や土が乗っていて足元が悪い。一歩一歩、確実に体重を移動させながら高度を稼いでいく。三人の息が合い、声を掛け合いながら登っていった。

八メートル滝は右岸から巻く。
午後二時五十分、c940付近に達した頃、ビバーク地を探し始めた。しかし理想的な場所は見当たらない。仕方なく、河原の狭い平地にツェルトを張ることにした。一等地とは言い難い。これを高級ホテルと呼ぶには、あまりにも慎ましい寝床である。

日が傾き始めると、谷底は急速に冷え込んでくる。せっせと薪を集め、火を焚いた。釣り上げた岩魚を私が捌き、刺身にする。SとMは釣ったばかりの岩魚を食べるのは初めてだという。渓で食べる新鮮な岩魚の味は格別だ。二人の驚きの表情が、疲れを忘れさせてくれた。

私はご飯を炊こうとコッヘルを火にかけたが、薪が崩れ不注意にも転倒させてしまった。白い米粒が河原の砂に散らばっていく。諦めて非常食のアルファ米を取り出す。味気ない夕食となったが、これも山の一興である。
火を囲んで三人で語らう時間は、疲労を忘れさせてくれる。炎が揺らめき、時折パチパチと薪が爆ぜる音が静寂を破る。星が谷間の細い空に瞬いていた。
午後八時頃には眠りについたが、深夜十時に目が覚めた。冷気が身体に染み込んでくる。ツェルトの外では、朝日俣沢の水音だけが変わらず響いている。再び眠りに落ちるまで、しばし星空を眺めていた。
第三部 – 岩魚止を越えて
二日目、午前五時に目を覚ました。谷底にはまだ薄暗さが残っている。再び火を熾し、珈琲を淹れる。立ち上る湯気と芳醇な香りが、冷えた身体を目覚めさせてくれる。朝ラーメンを啜り、午前六時二十分、ビバーク地を発った。
ビバーク地からも見える十メートルの滝は右岸から巻いて通過した。

標高千五十メートル付近まで進むと、河原状の開けた場所に出た。こちらの方がビバークには適していたかもしれない。しかし昨夜の狭い場所も、それはそれで悪くはなかった。
やがて谷は再び狭まり、いよいよ岩魚止ノ滝が姿を現した。見た目ほど高くはない。右壁からフリーで登る。これを越え、更に奥へと進んでいく。ゴルジュの様相が一層濃くなり、岩壁が迫ってくる。

その時である。私は不注意にも一トン以上はあろうかという大岩を落としてしまった。幸い後続のSとMとは距離があったため事なきを得たが、冷や汗が背中を伝った。山では一つの過ちが取り返しのつかない事態を招く。改めて気を引き締めた。
眼の前のCS滝が登れず巻こうと隣の沢の脆い滝を水線で登り、尾根に乗り上げた。そこで右手に五十メートルほどの滝が見えた。岩魚止沢の五十メートル滝である。そこでルートを間違えたことに気付いた。そもそも他人の記録など大して読まない三人である。笑いながら修正し、トラバースして滝の左壁に取り付いた。CS滝は朝日俣沢本流だったのである。

その後は小滝が連続する連瀑帯となった。二、三メートル程度の滝が次々と現れるが、いずれも技術的には難しくない。注意しながら、一つ一つ確実に越えていく。仲間との掛け声が谷に響いた。

やがて水が枯れ、ゴーロを進んでいくと沢型が消えた。草原である。詰めの開放感が心地よい。登山道付近はハイマツのブッシュ帯になるが、山頂方面に逃げれば藪漕ぎは少なくなる。

藪を漕いだ。しかし一定方向に生えているため、思ったほど大変ではなかった。山頂まであと十分ほどである。
午前十一時四十分、大朝日岳の山頂に立った。稜線には多くの登山者がいた。V字の谷底から這い上がってきた身には、別世界に辿り着いたような錯覚を覚える。昼食を摂り、正午に下山開始。中ツル尾根をひたすら下る。疲労と暑さでこれがまたきつかった。

下山途中、朝方に見つけたトンビマイタケのことを思い出した。しかし株のあった場所に戻ると、腐ったものを除いてすっかり採られていた。やはり見つけたら直ぐ取らねばならぬと反省する。
午後四時十分、無事下山。朝日らしいV字ゴルジュと美しい滝、そして詰めの開放感。秋の沢旅を満喫した二日間であった。
【記録】
- 日程:2023年9月9日〜10日
- メンバー:3名
- ルート:朝日鉱泉→二股出合→岩魚止沢→大朝日岳→中ツル尾根→朝日鉱泉
- 天候:晴れ
- 水量:平水〜やや少なめ
- 遡行グレード:3級
- 登攀グレード:Ⅲ