【深層考察】登山における熊対策 ー 装備より行動が命を守る

北村 智明

熊による人身被害が過去最多水準で推移する中、登山者にとって熊対策は避けて通れない課題となった。熊鈴や熊スプレーといった装備に頼る前に、まず理解すべきは熊の生態と予防行動だ。10年間で5回の遭遇経験、そのうち1回はガイド中の遭遇という実体験を交えながら、装備と行動の両面から実践的な対策を考察する。

第1部:深刻化する熊被害の現状

統計が示す危機的状況

2025年4月から7月末までに熊に襲われて負傷または死亡した人は全国で55人に達し、過去最多と並ぶ水準となった。もはや「まれな山の事故」ではない。統計上もメディア報道上も、熊による人身被害は「身近なリスク」へと変化している。

2019年から2024年の熊による人身被害件数が多い都道府県は、北海道、青森県、岩手県、秋田県、新潟県、福島県、長野県がほぼ占めている。これらの地域で登山やガイド業に従事する者として、この数字は決して他人事ではない。

8月には知床・羅臼岳で26歳の男性登山者がヒグマに襲われ死亡した。知床財団の調査報告書によれば、被害者は事故当日、早朝5時半に登山口を出発し、11時の事故発生時点で既に下山途中だった。短時間で行程を進めるため走っていた可能性が指摘されている。熊の活動時間帯である早朝に登山を開始し、急いだ行動が遭遇リスクを高めた可能性がある。

10月には宮城県栗原市で、キノコ採りをしていた75歳の女性が熊に襲われ死亡、同行していた別の女性が行方不明となり、現在も捜索が続いている。連れ去られた可能性も否定できない状況だ。頭部への攻撃、そして連れ去り。これらは熊の典型的な行動パターンである。

市街地への進出という新局面

北海道東部のOSO18や秋田県のスーパーKといった個体がニュースで取り上げられるように、市街地や農地での出没はもはや例外ではない。札幌市のような都市でも近年は常態的に熊が目撃されている。

高尾山では6号路を含む複数のルートで熊の目撃情報があり、特に冬眠前の時期には注意が必要だ。景信山付近や草戸山周辺で目撃例が確認されている。東京都内の低山ですら油断できない状況が生まれている。

そして8月、立山黒部アルペンルートの室堂平、標高2,450mのミクリガ池で、熊が泳ぐ姿が目撃された。富山県警山岳警備隊は「前代未聞のめずらしい光景」とXで発信し、注意を呼びかけた。室堂は年間100万人以上が訪れる観光地だ。登山装備を持たない観光客も多い場所で、熊が出没する。もはや「奥山の出来事」ではない。

富山県警山岳警備隊が室堂ターミナルのホワイトボードに熊の出没情報を書き込んでいる光景が、新しい日常になりつつある。

この背景には何があるのか。2023年、秋田県では熊の餌となるブナ・ミズナラ・コナラの3種すべてが大凶作となった。森林の餌が不足すれば、熊は人里に出てくる。個体数の増加と餌不足、そして人間の活動範囲の拡大が重なり、遭遇リスクは年々高まっている。

熊による人身被害者数の推移(2008-2023年度)

※出典:環境省「クマ類による人身被害について」
※2023年度は統計開始以来の過去最多(219人)を記録

第2部:熊の生態と遭遇リスクが高い状況

活動時間帯の理解

夏の活動時間帯は朝4時から7時頃、夕方は5時から9時頃だ。つまり、登山者が好む早朝出発や夕暮れ時の下山は、熊の活動時間と重なる。

私自身の5回の遭遇も、そのほとんどが朝方か夕方だった。岩手の鞍掛山でガイド中に横から遭遇した時は幸い、驚いて熊が先に逃げたが、もし子連れだったら、あるいは餌場だったら、結果は違ったかもしれない。

子連れの母熊は、危険なオスを避けて日中に行動するという点も重要だ。「昼間なら安全」という認識は誤りだ。特に春から初夏にかけては、子連れの母熊に注意が必要である。

行動範囲と季節変動

春から夏は狭い範囲で行動するが、秋は広い範囲を歩き回る。秋にかけては冬眠の準備のため熊がエサを求めて活発に活動する時期だ。

秋山シーズンは登山者にとって最も魅力的な時期だが、熊にとっても生死に関わる重要な時期だ。この時期の熊は攻撃的になりやすく、遭遇時の危険度も高まる。

音に慣れた熊の出現

一部地域では音に慣れた熊も出現しており、単独行動や早朝・夕方には特に慎重な対策が求められる。これは装備依存の限界を示す重要な指摘だ。


第3部:装備の実効性を問う

熊鈴の効果と限界

熊鈴は最も普及している対策装備だろう。理屈としては「音で存在を知らせ、熊を遠ざける」ということだ。

しかし、実効性には疑問が残る。第一に、風や沢音で鈴の音がかき消される状況は多い。第二に、音に慣れた熊には効果が薄い。第三に、鈴を鳴らしながら歩く行為は、野生動物全般を遠ざけてしまい、自然観察の妨げにもなる。

私自身は熊鈴を常用していない。代わりに、見通しの悪い箇所では意識的に声を出したり、ストックで地面を叩いたりする。人間の声は熊が最も警戒する音だ。

ただし、初心者や不安を感じる登山者にとって、熊鈴は心理的な安心材料になる。その意味での効果は否定しない。使用するなら、沢沿いや風の強い稜線では鳴らさないなど、状況判断が必要だ。

熊スプレーの選択と課題

TOM
TOM

よくある誤解:「熊スプレーを持っていれば安全」


これは誤りです。使い方を知らなければ、いざという時に役立ちません。訓練なしの携行は、誤った安心感を生むだけです。

熊スプレーは物理的な防御手段として有効性が認められている。しかし、選択には注意が必要だ。

市販されている熊スプレーの中には、ヒグマ対応になっていないタイプも存在する。ツキノワグマ用とヒグマ用では、噴射距離や成分濃度が異なる。北海道での登山には必ずヒグマ対応品を選ぶべきだ。

また、使用には訓練が必要だ。パニック状態で正確に噴射できるか。風向きを考慮できるか。携行位置はすぐに取り出せる場所か。これらを事前に確認しておかなければ、いざという時に役立たない。

さらに、熊スプレーは万能ではない。射程距離は数メートル程度で、接近を許してしまった時点で使用は困難だ。予防こそが最大の防御である。

ホイッスルと音による威嚇

電子ホイッスルは音量が120dBに達するタイプもあり、瞬時の使用に便利だ。通常のホイッスルも、体力を消耗せずに大きな音を出せる点で有効だろう。

ただし、これも音に慣れた熊には効果が薄い可能性がある。また、遭遇してから吹くのでは遅い。予防的に音を出すための道具と考えるべきだ。

ラジオという選択肢

AMラジオをつけて歩くことで熊に人間の気配を伝える方法が有効だ。人の声と似た周波数の音が効果的とされる。

これは理にかなった方法だ。人間の会話に近い音は、熊が最も警戒する。単独行の場合、ラジオは有効な選択肢となるだろう。


第4部:予防と行動こそが最大の対策

音を出す習慣

10から20mおきに手を叩く、グループで会話しながら歩くことも有効だ。特に見通しの悪い登山道では意識して実施すべきだ。

私の経験上、最も効果的なのは人間の声だ。ソロの場合でも、見通しの悪い箇所では「ホー」と声を出す。不自然かもしれないが、命には代えられない。

グループの場合、会話は自然な予防策になる。ただし、夢中になって周囲への注意が散漫になってはいけない。適度な間隔で周囲を確認する習慣が重要だ。

時間帯の選択

可能であれば、熊の活動時間帯を避ける。日の出前の出発は避け、午前7時以降に行動を開始する。下山も、遅くとも午後4時には完了したい。

ただし、これは理想論だ。登山では、早朝出発や夕暮れ時の行動は避けられない。その場合、より慎重な行動が求められる。

羅臼岳の事故では、被害者は5時半という早朝に登山口を出発し、約5時間半で往復している。急いだ行程は、音を出す余裕を奪い、周囲への注意力を低下させる。時間的余裕は、安全のための余裕でもある。

食料とゴミの管理

テント泊や山小屋泊では、食料の管理が重要だ。テント内に食料を置かない。ゴミは完全に持ち帰る。

TOM
TOM

できるだけ匂いの強い食材は避ける。カレーやラーメンの残り汁を地面に捨てるなど、論外だ。

ルートファインディングと情報収集

登山計画の段階で、熊の出没情報を確認する。各自治体が公開している「熊出没マップ」は必ずチェックすべきだ。

ルート選択でも、できるだけ開けた場所を通る。藪漕ぎは極力避ける。沢沿いは音で気配が消えやすいため、特に注意が必要だ。

ガイドとしての判断

ガイドとして、お客様の安全は最優先だ。熊の目撃情報があれば、ルート変更も辞さない。「せっかく来たのに」という声もあるだろうが、命には代えられない。

単独登山者も同様だ。引き返す勇気を持つべきだ。


第5部:遭遇時の行動

TOM
TOM

絶対に走らない!
走ることは熊の追跡本能を刺激します。人間は熊の速度には勝てません(時速60km)。ゆっくり後退するか、その場に留まることが鉄則です。

距離別の対応

遠くで発見した場合、静かにその場を離れる。騒がず、走らず、熊を刺激しない。

30メートル程度の距離で遭遇した場合、熊から目を離さず、ゆっくりと後退する。背を向けて走ることは、熊の追跡本能を刺激する。絶対にしてはいけない。

羅臼岳の事故は、急いだ行動の危険性を示している。知床財団の調査報告書には、時間に追われて走っていた可能性が記されている。遭遇時に走って逃げたのではなく、登山の工程自体を急いでいた。走ることは音を消し、熊との不意の接近を招く。人間は熊の速度には勝てない。

至近距離での遭遇は、最も危険だ。この場合、熊スプレーがあれば使用する。ない場合、ザックで防御して地面に伏せて首の後ろを守る。死んだふりではなく、攻撃対象でないことを示す姿勢だ。

子連れの熊は特に危険

母熊は子を守るために攻撃的になる。子熊を見たら、母熊が近くにいると考えるべきだ。即座にその場を離れる。

絶対に子熊に近づいてはいけない。写真を撮ろうなどとは、考えてもいけない。

襲われた場合

現実として、襲われる可能性はゼロではない。その場合、頭部と頸部を守ることが最優先だ。

ザックを背負っていれば、それが防御になる。地面に伏せ、両手で首の後ろを守る。熊が去るまで動かない。


総括:装備と行動のバランス

熊対策において、装備は補助的な役割に過ぎない。熊鈴も熊スプレーも、それ自体が安全を保証するものではない。

最も重要なのは、熊の生態を理解し、遭遇を避ける行動を取ることだ。活動時間帯を考慮し、音を出す習慣を持ち、情報収集を怠らない。これらの積み重ねが、リスクを下げる。

装備を持つことで安心し、行動が疎かになっては本末転倒だ。装備は「万が一」の備えであり、「遭わないための行動」こそが第一線の防御である。

10年間で5回の遭遇は、決して多くはないかもしれない。しかし、そのたびに感じるのは、運の要素の大きさだ。相手が子連れでなかったこと、餌場でなかったこと、こちらが集団だったこと。これらの条件が一つでも違えば、結果は変わっていたかもしれない。

熊は、我々が間借りさせてもらっている山の住人だ。敬意を持ち、距離を保ち、共存の道を探る。それが登山者としての責任だろう。


まとめ

◆ 熊被害の現状

  • 2025年上半期の被害者数は過去最多水準(55人)
  • 岩手、秋田、北海道など東北・北海道で被害集中
  • 8月:羅臼岳で26歳男性死亡(早朝5:30出発、11:00事故、急いだ行動の可能性)
  • 8月:室堂・ミクリガ池で熊が泳ぐ姿が目撃(標高2,450m、年間100万人の観光地)
  • 10月:栗原市で75歳女性死亡、別の女性が行方不明
  • 市街地や低山、観光地でも出没が常態化

◆ 遭遇リスクが高い状況

  • 活動時間:早朝(4-7時)と夕方(5-9時)
  • 季節:秋(冬眠前の栄養摂取期)
  • 場所:藪、沢沿い、餌場

◆ 装備の選択

  • 熊鈴:補助的効果、音に慣れた熊には限定的
  • 熊スプレー:ヒグマ対応品を選択、使用訓練必須
  • ホイッスル・ラジオ:予防的な音出しに有効

◆ 最も重要な予防行動

  • 音を出す習慣(声、手を叩く、会話)
  • 活動時間帯の調整(早朝・夕方は熊の活動時間)
  • 時間的余裕を持った行動計画(急ぐことは危険)
  • 出没情報の事前確認
  • 食料・ゴミの適切な管理
  • 引き返す勇気

◆ 遭遇時の基本行動

  • 遠距離:静かに離れる
  • 中距離:ゆっくり後退、絶対に走らない
  • 至近距離:防御姿勢、頭部保護
  • 走って逃げることは追跡本能を刺激し最も危険

◆ 参考資料

  • 知床財団「2025年羅臼岳登山道におけるヒグマ人身事故に関する調査速報」

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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