【山岳紀行】

【山岳紀行】入笠山 ー ゴンドラで昇る高原の対話

北村 智明

七月の信州は、濃密な緑と湿った冷気に包まれていた。今回の山行は、「花の百名山」にして日本三百名山の一つ、入笠山(1,955m)を巡る、一日の穏やかな山旅の記録である。私は、この優美な山が示す、険しさとは異なる自然の寛容な一面との対話を求めた。

第一部 – ゴンドラが運ぶ雲上の楽園

旅路の果てに
七月六日の早朝、福島駅前を午前五時三十分に出たバスは、東北道と中央道を延々と走り続けた 。長距離の移動は身体を重くしたが、窓外の景色が里山から深い山並みへと変わっていくにつれて、内なる期待は高まる。我々が目指すのは、長野県に位置する入笠山である 。ここは「花の百名山」の称号を持ち、穏やかな山容で多くの登山者を迎え入れる 。ガイドとして、この大規模な一行を安全に導くのが私の使命であった。

富士見パノマリゾート山麓駅に辿り着いたとき、既に時刻は午後に差し掛かっていた 。我々は文明の利器、ゴンドラに乗り換える 。山頂駅まで一気に高度を稼ぐこの方法は、自力で標高を稼ぐという山行の最も根源的な部分を省略する。しかし、これにより体力に自信のない者でも、山頂の空気を吸い、高山植物の生命力に触れることができるのだ。私は、これを山の持つ「寛容さ」の一つの形として受け入れている。

登山者としての解放
山頂駅に降り立つと、天候は幸いにも晴れ。眼下には濃密な緑が広がり、遠くの山並みは青く霞んでいた。同行者たちの表情には、旅の疲労よりも、この清々しい空気と眼前の絶景への期待が勝っていた。

これまでの私の山行は、しばしば険しい沢や岩場での格闘が主である。しかし、この日の入笠山は、その対極にある。我々が踏み入れる登山道には、薮も岩も、ましてや滝もなかった。その快適さは、私にとって新鮮であった。身体的な消耗が極めて少ない代わりに、周囲の自然に対し、より深く五感を集中させる余裕を得ることができた。この穏やかな山行は、私に登山者としての解放感をもたらした。

第二部 – 花の湿原が語る生命の詩


謙虚な足取り
山頂(1,955メートル)を目指す道は、入笠湿原から始まった 。山彦荘、ヒュッテ入笠といった山小屋を過ぎ、道は次第になだらかになる。この日の登高の標高差はわずか221メートル 。この数値が示す通り、同行者たちは皆、軽快な足取りで進んでいた。

山行とは、特定の目標達成を追う行為であると同時に、足元の小さな生命との出会いもまた重要な要素である。私はガイドの役割を忘れ、同行者たちと共に、謙虚な気持ちで視線を下げた。

命の多様性に癒される
この七月上旬、湿原を彩るはずのスズランやアツモリソウの最盛期は過ぎ去っていた。しかし、山は我々を失望させなかった。最盛期を終えてなお、湿原や登山道の脇には、可憐なソバナの淡い青紫、高貴な姿のクガイソウ、そして白く星を散らしたようなミネウスユキソウなど、二、三十種類もの高山植物が点在していた。

激しい登攀では、しばしば足元を見る余裕すら失われる。しかし、この入笠山の穏やかな道は、私に時間をくれた。足元の植生の変化、地面を覆う苔の微かな息吹、そして湿原を吹き抜ける清涼な風。それらの多様な命の営みは、我々の心を深く癒してくれた。この快適な山行の中で、私は山が持つ慈愛に満ちた一面を深く感じ取ることができた。道中には危険な箇所もなく、我々は安全を確保しつつ、ゆったりと高度を稼いでいった。

第三部 – 高山植物の静かな余韻


十八分間の山頂
我々は、山頂へと続く岩場コースを避け、安全な迂回コースを選択し、午後二時五十五分に山頂へと到達した。山頂(1,955m)での滞在時間は、十八分間。大勢のツアー客を率いる身としては、この限られた時間が、この日の山行のクライマックスの象徴であった。

山頂からの眺望は素晴らしく、遠くの山々が連なる姿は雄大であった。この山は、昼間は八ヶ岳や南アルプスの大展望を、そして夜には、近くの山小屋に天文ドームがあるほど、日本有数の満天の星空を抱く場所なのだ。

しかし、この日の私にとってのクライマックスは、頂の絶景よりも、道中で出会った花々の静かな生命力であったかもしれない。山頂を極めた後、我々は来た道を速やかに引き返し、ゴンドラ山頂駅へと戻った。

高原の対話と感謝
下山後は、八ヶ岳エコーラインを通り、立科町のホテルへと移動する前に、白樺高原へと立ち寄った 。湿原の余韻が残る身体で高原の空気を吸い込む。この日の山行は、激しい挑戦を伴うものではなかったが、その分、私は山との対話を静かに深めることができた。

山は、時に荒々しい姿を見せ、人間に試練を与える。しかし、入笠山のように、優しく人々を迎え入れ、その懐の豊かさを見せてくれる側面も持っている。この山行は、私が山に対して抱く深い愛情と畏敬の念を、より多角的なものへと進化させてくれたのであった。

記録


• 日程: 2023年7月6日(木)
• メンバー: 20名(私<ガイド>、サブガイドW、添乗員、同行者17名)
• 山域: 南八ヶ岳山麓(入笠山 1,955m)
• ルート: 富士見パノマリゾートゴンドラ山頂駅 … 入笠湿原 … 入笠山 往復
• 歩程: 約2時間30分(休憩除く)
• 標高差: +221m -221m
• 宿泊形態: 立科町 ホテルアンビエント蓼科(泊/17:50頃)
• 天候: 晴れ
• その他特記事項: ゴンドラを利用する初級者コース。花の百名山、日本三百名山。

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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