【山岳紀行】

【山岳紀行】谷川岳東尾根 ― 冬の稜線に刻む一線

北村 智明

冬の終わりの陽が、谷を蒼く染めていた。
白と影が交わるその狭間に、東尾根は静かに延びている。
一ノ沢を詰め、シンセンのコルを越え、風の稜線へ。
四人の足跡が刻んだのは、たった一日の線にすぎない。
けれどその白い線こそ、冬の谷川が我々に許した記憶であった。


第一部 ― 谷を包む白光

夜明け前の福島を出た。東の空にはかすかな星明かりが残り、凍てつく街道を南へと車を走らせる。国境の長いトンネルを抜けた瞬間、世界は一変した。雪が深く、木々の枝は霧氷に包まれ、谷川岳の双耳峰が白く光を返している。

谷川岳ベースプラザに着くと、朝の冷気が車窓を凍らせていた。荷を整え、ザックを背に立つ。空は晴れ渡り、放射冷却の朝特有の静けさがあった。
一ノ倉沢への林道を進む。雪面には昨夜の風が刻んだ細かな波紋があり、風の行方を想像させる。沢音は聞こえず、すべてが凍てついていた。

やがて一ノ倉沢の出合に着く。ここでアイゼンを履いた。鉄の歯が雪を噛む音が谷に吸い込まれていく。ここから先が、冬の谷川である。
雪面は締まり、踏み出すたびに小さな音を返した。岩壁を見上げれば、白い影がいくつも折り重なり、太陽の角度によってその輪郭を微妙に変えていた。
誰もいない朝の沢筋を、我々は黙々と進んだ。

やがて一ノ沢に入り、傾斜が増す。積雪は膝下ほどであり、表層・中層ともに注意を要する雪質であった。バランスを誤れば簡単に潜り込む。息を整えつつ視線を上げると、正面にはシンセンのコルが白く光っていた。冬の東尾根への門である。

コルに立つと、北からの風が強く吹き抜けた。背後に振り返れば、一ノ倉沢の奥深い谷が遥かに沈み、岩壁の縞がくっきりと浮かんでいる。冬の谷川は、美しさと恐ろしさを同じ秤に載せているように見えた。


第二部 ― 風の稜線にて

東尾根に取り付く。初めは緩やかな雪稜だが、すぐに傾斜を増し、第一岩壁の基部へと導かれる。陽はまだ低く、岩の陰には冷気が滞っていた。
雪が腐り始め、足を置くたびに沈む幅が不定である。ピッケルを深く刺し、荷重のかかり具合に注意しながら進む。

やがて前方に白く細い線が伸びるのが見えた。ナイフリッジである。両側が鋭く落ち込み、雪の稜線は文字通りナイフの様に細くなっている。Yが先行し、TとSが続く。私は中ほどに立ち、四人の隊列の中心から稜線を見守った。

先行のパーティが第一岩峰に取り付いているのが見えた。声が岩に反響し、静かな谷に戻ってくる。

第二岩峰も沢山の岳人がその順番を待っていた。それを受けて我々は右の雪壁を高く巻くことに決めた。
斜面は一見して硬く見えたが、深く踏むと崩れやすい。Yがピッケルを確実に置き、私はその後に続いた。ロープを出し、トラバースしながら高度を稼ぐ。岩と雪の境界を慎重に探し、ひとつひとつ足場を確認していった。風が増し、吹きつける雪が目を細めさせる。

アイゼンの前爪が雪に噛みつき、ピッケルの刃が静かに空気を切る。風が稜線を渡り、雪煙が薄く漂う。歩幅は小さく、呼吸は整えられている。緊張と静寂が同居する時間であった。
稜線の先に抜けると、斜面はやや緩み、最後の雪壁が立ちはだかった。その雪壁には既に雪庇が切られており、10メートル程度の雪壁となっている。雪庇切断の跡を踏み、最後の一登りをこなすと、我々は主稜線の肩に立った。

そこには、トマの耳とオキの耳が冬日の中で並んでいた。遥かに広がる空と、歩いてきた白い線が胸に迫る。核心は越えたという安堵が、静かに体を満たした。


第三部 ― 光のあとさき

稜線に立つと、風は一瞬止んだ。空は澄み渡り、足元には越えてきた東尾根が白い線を描いている。
谷の底から立ちのぼる雲が光を帯び、山全体が淡い蒼に包まれている。午後の日差しが柔らかく、冬の谷川にしては穏やかな時間が流れていた。

頂上に立った仲間が短く頷く。その表情に言葉はいらなかった。
我々はノーマルルートを辿り、天神尾根へと降りる。雪は午後の温度で次第に緩み始め、踏み抜きも増える。安全第一で間隔をとりつつ、確実に足を運んだ。

肩の小屋を過ぎるころ、谷川連峰の影が徐々に長く伸びていく。空は群青に変わり、風の音だけが残った。
ふと振り返ると、登ってきた尾根が遠くに見えた。その線は、まるで一日の記憶を雪に刻んだかのように、淡く細く延びていた。

ベースプラザに戻ると、すでに日が傾きかけていた。湯テルメ谷川の湯に浸かりながら、窓の外に稜線の影を見る。湯気の向こうで雪が静かに舞い始めた。あの尾根も今、再び静寂の中に埋もれていくのだろう。

冬の谷川岳。その厳しさと美しさは、ただ一日の記憶として、心の奥に静かに刻まれた。


記録

  • 日程: 2021年2月28日(日)
  • メンバー: 4名(私、S、T、Y)
  • 山域: 谷川岳(群馬県)
  • ルート: ベースプラザ → 一ノ倉沢 → 一ノ沢 → シンセンのコル → 東尾根 → 主稜線 → 天神尾根下降
  • 山行スタイル: 冬季バリエーション
  • 登攀グレード: Ⅱ〜Ⅲ級(1級上)
  • 天候: 晴れ
  • その他 下山後:自家用車にてベースプラザ駐車(1,000円)、湯テルメ谷川(650円)、谷川条例の届出が必要
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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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