【山岳紀行】

【山岳紀行】三ツ石山 ー 雨に煙る東北の秋

北村 智明

十月中旬、岩手県八幡平市と雫石町の境に位置する標高1,466メートルの三ツ石山へ。雨の予報を承知で福島を発ち、しとしとと降り続く雨の中を歩いた日帰りの山行は、紅葉と静寂に満ちていた。雨音を友として歩いた、秋の一日を綴る。


第1部:雨の東北道を北上して

福島市内を午前四時半に発った 。車のフロントガラスを叩く雨音が、既に今日一日の天候を物語っていた 。クライアント六名を乗せた私の車は 、雨に濡れた東北自動車道を北へ向かう 。

高速を降り、小岩井牧場を過ぎる。あの未曾有のパンデミックの影響がまだ完全に消えぬ社会の静けさは、雨の日の朝の風景と重なって、どこか内省的な気分を誘った 。前週、この東北の山域で小さな遭難事故のニュースがあったばかりであり、私は一層、ガイドとしての責任を心に刻んでいた 。岩手山は黒い雲に隠れて姿を見せない 。

三ツ石山 —岩手山から八幡平へ続く裏岩手縦走路のほぼ中間点に位置する標高1,466メートルの山で、本州では一足早く紅葉が見られる名峰— の登山口駐車場に到着したのは午前九時半頃であった。雨は止む気配がなかった 。私は全員の顔を見回し、平静を装いつつも心の中で今日の山行計画を再度確認した。

「今日はこの天気ですから、無理せずいきましょう」

そう告げて、私は全員にザックカバーとレインウェアの装備を確認した 。ガイドとしての責任は、何よりもクライアントの安全にある 。雨に濡れた路面を慎重に歩み始める 。

最初の一時間半は、ほぼ林道歩きであった 。足元を流れる水は、我々の進む道が自然の領域であることを否応なく示していた。樹林の下を静かに進む。雨音以外に聞こえるものはない 。時折、クライアントの誰かが滑りそうになるのを確認する。足元が濡れていることもあり、慎重を要した 。この慎重さこそが、長年にわたる私の山行の根底にある信念であった。水場を過ぎ、ようやく登山道らしい道に入る 。傾斜が徐々に増してくるが、それでも急登というほどではない 。

ブナの森が雨に煙り、幻想的な風景を作り出していた 。私はこの雨の日の、抑制された美の中にこそ、山の本質的な魅力があると感じていた。

第2部:沼地の難儀と避難小屋の温もり

滝ノ上温泉分岐を過ぎ 、三ツ石山荘への最後のアプローチに差し掛かった頃、予想外の困難が待っていた 。

避難小屋手前の登山道が、どろどろの沼地と化していたのである 。雨による増水か、それともこの山域特有のものなのか、判別がつかない 。登山道は既に道を失い、泥に覆われた岩と根っこ、そして深く抉られた水たまりが、我々の進路を塞いでいた。ここで引き返すかどうか、一瞬、冷静に判断する必要があると感じたが、沼地の距離はさほど長くはないと推測した。

私たちは慎重に足を進めた 。クライアントたちは皆、この難儀な状況にも関わらず、文句一つ言わず、黙々と歩いていた 。泥は粘り気を帯び、足元のバランスを崩す 。

「ここは慎重に。足を取られないように」

私は先頭を歩きながら、後続に声をかけ続けた 。靴裏に絡みつく泥の感触が、疲労をより早く身体に伝えてくる。泥に足を取られ、バランスを崩す者もいたが、誰も文句を言わず 、ただ静かに、一歩一歩を踏みしめていった 。彼らの集中力と、困難を分かち合う静かな連帯感が、私に安堵を与えた。

正午過ぎ、ようやく三ツ石山荘に到着した 。ログハウス風の避難小屋の扉を開けると、既に何組かのパーティが休んでいた 。薪ストーブの匂いと、濡れたウェアの湿った空気が混ざり合う、山小屋特有の匂いが我々を迎えた 。

「こんな雨の中、よく来ましたね」

一人の男性登山者が、笑いながら声をかけてきた 。

「お互いさまですよ」

私も笑って返した 。雨の山に挑む者同士の、物好きな雨登山愛好家たちの間に、不思議な連帯感があった 。小屋の中はストーブはあるものの火は付いていなかった 。私たちは濡れた装備を絞り、乾かし、軽く休憩を取る 。クライアントたちの顔には疲労の色が見えたが、誰も弱音を吐かなかった 。

「山頂まで行きますか?」

私は全員の様子を見ながら尋ねた 。皆、頷いた 。では行こう。四十分ほどの登りである 。どの方向から見ても三つに見える巨岩がそそり立つ山頂周辺へと続く道は 、笹原の中を緩やかに登っていく。稜線に出たのだろう。雨と風が少し強まってきた 。

午後一時、山頂に到着した 。しかし展望はほとんどない 。雨と風の中、ケルンの積まれた岩場で簡単に記念撮影をして、早々に避難小屋へと戻った 。山頂に長居する天候ではない。

小屋に戻ると、私たちは温かい飲み物を飲みながら、持参した昼食をとった 。ふと窓の外を見ると、草紅葉に覆われた湿原が、雨に煙りながらも見えた 。濡れた錦を敷き詰めたようにしっとりとした草紅葉は、晴天の華やかさとは異なる、秋の情趣を湛えていた 。


第3部:下山、そして温泉への帰還

午後一時半過ぎ、私たちは下山を開始した 。往路をそのまま戻る。泥沼地帯をもう一度通過しなければならない 。登りよりも下りの方が、足を取られやすい 。私は後ろを振り返りながら、クライアントたちの様子を注意深く見守った 。何度か転びながらも、彼らは皆、自力で泥沼を抜けた 。

樹林帯に入ると、雨は相変わらず降り続いていたが、木々が傘代わりになってくれた 。疲労は確かにあったが、不思議と心は満たされていた 。困難な状況下で、全員が無事に、かつ冷静に行動を完遂したという事実が、私に深い安堵と静かな達成感をもたらしていた 。

水場を通り過ぎ、林道を黙々と歩く 。午後二時四十三分、登山口駐車場に戻った 。行動時間にして約五時間の山行であった 。

車に戻り、濡れた装備を片付ける 。クライアントたちは皆、疲れた顔をしていたが、同時に充実した表情でもあった 。

「今日はお疲れ様でした。これから温泉に向かいます」

私はそう告げて、車を玄武温泉ロッヂたちばなへと走らせた 。私自身のガイドとしての判断も過信することなく、常に安全を最優先できていたことに安堵した。

夕刻、温泉に浸かりながら、今日一日を振り返る 。雨の山は確かに厳しかった 。しかし、その厳しさの中にこそ、山の本質がある 。山は、晴天の日の優美さばかりでなく、雨や風、そして泥という試練を通じて、登る者の本質を問いかけてくる 。

夕食は豪勢だった 。A5ランクの雫石牛、古代米、鮎の塩焼き、天ぷら。山から下りた後の食事は、いつも格別である 。

雨に煙った三ツ石山の紅葉 。そして避難小屋での静かな交流 。この日の山行は、晴天の華やかさとは異なる、しっとりとした秋の情趣に満ちていた 。雨音を友とし、泥沼を共に抜けたこの日の経験は、私の山行の記録の中でも、ひときわ鮮やかな一枚の錦絵のように刻まれるであろう。


記録

  • 日程: 2025年10月12日(日) [日帰り]
  • メンバー: 7名(ガイド1名、クライアント6名)
  • 山域: 三ツ石山(岩手県八幡平市・雫石町)
  • ルート: 三ツ石山登山口駐車場 → 水場 → 三ツ石山登山口 → 滝ノ上温泉分岐 → 三ツ石山荘 → 三ツ石山 → 往路下山
  • 行動時間: 5時間13分(休憩含む)
  • 宿泊形態: 日帰り(下山後:玄武温泉ロッジたちばな泊)
  • 天候: 終日雨
  • スタート地点: 福島(午前4:30出発) → 登山口(午前9:30着)
  • その他特記事項: 紅葉見頃、避難小屋手前の登山道が泥沼化、稜線は雨風やや強い

玄武温泉 ロッヂたちばな

https://lodge-tachibana.lolipop.jp/

Download file: 三ツ石山20251012.gpx

【追伸:次は、あなたの番です!】
三ツ石山での雨の中の山行記、最後まで読んでいただきありがとうございます。

雨に煙る紅葉の美しさや、泥沼を乗り越えた後の温かい達成感は、晴れた日には得られない特別なものです。

「天候が不安定でも、安全に山を楽しみたい」

「三ツ石山のような、静かで情緒のある山を歩きたい」

「登山はしたいけれど、ルートの選定や装備が不安だ」

お客様の「わくわく」と「大丈夫かな?」という気持ちに、プロのガイドとして責任を持って寄り添います。

雨や風といった自然の厳しさの中でも、最高の景色や思い出を見つけ、安全に下山する――そんな山行をデザインするのが、わたしの個人ガイドツアーです。

私も三ツ石山で感じた、あの深い達成感と静かな山の魅力を、あなたにも満喫していただけるよう、心を込めてご案内します!

まずは、おしゃべりする感覚で、あなたの「次に行ってみたい山」を私に教えてくださいね。お気軽にご連絡ください!

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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