【山岳紀行】葛根田川北ノ又沢右股 ー 夏の銘渓を巡る
盛夏の八幡平、葛根田川北ノ又沢へ。日本百名谷に名を連ねる名渓を遡り、大白森湿原を経て明通沢を下る周回の山行は、ゴルジュ、釣り、湿原、そして癒しの渓に満たされた二日間であった。沢登りの醍醐味を凝縮した、七月の渓行記。
第一部:序章
宮城を発ったのは前日の夕刻であった。仙台を抜け、東北自動車道を北上する。八幡平を目指す道中、予期せぬトラブルがあった。目的地手前のトンネルが夜間工事で通行止めだった。やむなく手前でテントを張り、深夜二時の就寝となった。
七月末、東北北部は記録的な大雨に見舞われていた時期だった。秋田では土砂崩れの被害も出ている。我々の山行も、この天候に翻弄されるのではないかという不安があった。しかし、幸いにも予報は晴れである。慎重さを心に刻みながら、準備を整えた。
翌朝六時、起床。メンバーはS、S、O、K、Yの五名、私を含めて六名である。全員をゲート前に下ろし、私自身は滝ノ上温泉の駐車場に車を停めた。
葛根田川北ノ又沢は、岩手県の八幡平に源を発する名渓である。日本百名谷の一つに数えられ、豊富な水量と明るいゴルジュが特徴で、古くから登攀対象として知られてきた。かつては滝ノ又沢の方が人気があったというが、平成に入って火山規制で長期間封鎖されていた時期もあり、北ノ又沢の価値が見直されたという経緯がある。

葛根田地熱発電所がスタート地点だ。舗装された林道を進み、堰堤を越えた辺りにピンテを見つけた。踏み跡を辿り、入渓する。

さすが本流である。水量が多い。暫く雨は降っていなかったというが、それでもこの豊かな流れだ。渡渉を繰り返しながら進む。足元の岩は滑りやすく、慎重を要する。一歩一歩、確実に体重を移していく。冷たい水が足首を包む。流れの音が谷に響き、湿った岩から土の匂いが立ち上る。

両岸の樹林は深い。ブナやミズナラの緑が濃く、沢床に影を落としている。ゴーロを歩き、また渡渉する。単調ではあるが、これこそが沢登りの基本だ。足裏から伝わる岩の感触を確かめながら、リズムよく歩を進めた。

明通沢の出合を過ぎると、ドクロ滝と呼ばれる滝が現れた。名前の不気味さとは裏腹に、明るく開けた滝である。水しぶきが白く煙り、岩を叩く音が大きい。これを越えると、お函のゴルジュへ入った。

明るいゴルジュだ。両岸の岩壁は高く迫るが、谷底には十分な光が差し込んでいる。水量が多いため、落ちることは許されない。過去に死亡事故も発生した箇所だという。我々は一列になり、互いの動きを確認しながら進んだ。濡れた岩を、一歩の重みを確かめながら捉えていく。滑ったら、そのまま流されるだろう。不安は確かにあった。しかし、ここで引き返すわけには行かない。
大石沢の出合でテントが一張り見えた。ここで水量は半減する。一対一の沢である。流れが少し穏やかになったのを感じた。
第二部:遡行と釣り

葛根田大滝の前で、地元の釣り師に出会った。話しかけると、岩手弁が新鮮で心地よい。「この釜は釣れるよ」と教えてくれた。今まで魚影は見えなかったが、ここから上は期待が持てるらしい。了解を貰い、大滝の左岸をコンパクトに巻いた。滝の轟音を背に、慎重に高度を上げていく。

大滝より上の中流部からは、釣りの時間となった。大きな釜は少ないが、小さな瀞や流れの緩い瀬にも魚影は濃い。ただし、全体的に小ぶりだ。二人で六人分の夕飯のおかずを確保するため、私とYは必死である。
私はルアー、Yは餌とテンカラを使い分ける。私は王道のDコンタクト50チャートヤマメのミノーで攻めた。スピナーを紛失してしまったのは痛かったが、ミノーでも反応は良い。

一投ごとに集中する。水面の変化、岩陰の暗がり、流れの淀み。魚が潜んでいそうな場所を読みながら、丁寧にルアーを通していく。キャストし、リトリーブする。何度目かの投げで、ミノーに明確なバイトがあった。竿先が引き込まれる。慎重を期し巻き上げると、二十センチほどの岩魚が跳ねた。銀色の体が陽光を反射する。
Yも餌釣りで次々と釣り上げる。テンカラの竿がしなる様も美しい。沢を進みながら釣る、これもまた沢登りの楽しみの一つだ。
やがて、二人で六匹を確保した。最大は二十五センチと良いサイズだ。なんとか、仲間の食卓を満たす役目を果たすことができた。

午後二時過ぎ、十五メートル滝に到着した。水線右が登れそうにも見えるが、手前の小尾根から右岸を巻くことにした。かなり悪い。足場が不安定で、ホールドも心許ない。灌木を掴み、細心の注意を払って体重を移していく。落ち葉が滑る。一歩間違えば滑落する高度だ。慎重を期して、一人ずつ確実に通過していく。全員が無事に巻き終えるまで、気を抜くことはできなかった。

滝ノ又沢の出合を過ぎると、沢は再び穏やかになった。水量はさらに減り、遡行は容易になる。標高を稼ぐにつれて、周囲の植生も変化してきた。
標高九百二十メートル付近、等高線の緩い右岸にビバーク適地を見つけた。一泊の宿としては分不相応な場所にこそあれ、豪華な山荘と比するは、あまりに寂しい幕舎であった。それでも、六人が横になれる広さはある。

夕刻、焚き火を起こした。釣った岩魚を串に刺し、塩焼きにする。火の番をしながら、仲間と今日の遡行を振り返る。睡眠不足で半分寝ながらの宴会だったが、炎の温もりと魚の香ばしさが心地よかった。皮がパリッと焼け、身はふっくらとしている。岩魚の味は格別だ。谷底は急速に冷え込んでくる。焚き火の炎が揺れるたびに、岩壁に影が踊った。

二十二時、就寝。満天の星が頭上に広がっていた。天の川がはっきりと見える。都会では決して見ることのできない光景だ。
第三部:湿原と癒しの下降
二日目は七時にスタートした。右俣を進む。名渓六十二選の遡行図には記載が少なかったが、実際にはもっと滝が多い。小滝を一つ一つ確実に越えていく。どれも高さは五メートル前後だが、油断はできない。水量は少なくなってきたが、岩のヌメりは相変わらずだ。

ナメ滝を登り、小ゴルジュを抜ける。沢が二股に分かれる箇所では、必ず地形図を確認した。右へ、また右へ。間違いなく稜線へ向かっている。

源頭は蛇行した薮の濃い詰めとなった。水が切れた頃には、沢型を無視して進む方が良いと判断した。先が見えない薮を暫く漕ぐ。枝が顔を叩き、足元は見えない。笹が密生し、一歩進むのにも力がいる。それでも、標高を稼いでいる感覚はある。あと少しだ。

そして、突然だった。薮をかき分けた先に、ぽっと視界が開けた。

大白森湿原である。沼地ではなく、比較的乾いた湿原だった。谷の底から這い上がった我々を、大白森湿原は巨大な緑の絨毯のように優しく受け止めた。湿原特有の植物が点在し、風に揺れている。休憩に適した場所だ。我々は腰を下ろし、行動食を口にした。風が心地よい。ここまでの苦労が、一気に報われたような気がした。青空が広がり、遠くに八幡平の山並みが見える。静寂が支配する空間だ。
十分な休憩の後、下降を開始した。明通沢へ向かう。
下降は薮漕ぎで始まった。三十分ほどで薮は薄くなり、やがて水が出てくる。明通沢だ。最初は細い流れだったが、徐々に水量を増していく。

明通沢は、その名の通り明るい良い沢であった。陽光が水面に反射し、きらきらと輝いている。癒し渓、という言葉がぴったりだ。苔むした岩、穏やかな流れ、木々の緑。水流は岩肌を、白磁の肌のように滑らかに伝う。全てが優しく、柔らかい。前日に遡った北ノ又沢の力強さとは対照的だ。同じ山域でも、これほど沢の性格が違うものかと感心した。

小滝をいくつか越え、懸垂下降を繰り返す。ロープをセットし、一人ずつ降りていく。懸垂は全部で三回だった。どれも十メートル前後の滝で、快適に降りられる。

枝沢から本流へ合流した。水量がさらに増す。古びた橋が見えたら、左岸から林道へ上がる。林道を一時間ほど歩くと、葛根田地熱発電所へ戻った。十五時、下山。
下山後、滝ノ上温泉滝観荘へ向かった。七百円を支払い、浴室へ。二日間の汗と疲れが、湯に溶けていく。窓の外には葛根田川の流れが見える。つい数時間前まで、我々があの渓を歩いていたのだ。
ゴルジュ、釣り、高巻き、ビバーク、焚火、薮漕ぎ、湿原。沢登りの醍醐味が凝縮された二日間であった。葛根田の優しい流れが、今も心に残っている。
記録
- 日程: 2023年7月29日(土)〜30日(日)
- メンバー: 6名
- 山域: 八幡平・葛根田川(岩手県)
- ルート: 葛根田地熱発電所 → 葛根田川北ノ又沢右股遡行 → 大白森湿原 → 明通沢下降 → 葛根田地熱発電所
- 行動時間:
- 1日目: 約8時間
- 2日目: 約8時間
- 宿泊形態: ビバーク(標高920m地点)
- 天候:
- 1日目: 晴れ
- 2日目: 晴れ
- 水量: やや多め
- 遡行グレード: 3級
- 登攀グレード: IV級(15m滝、巻き可能)
- スタート地点: 宮城県内 → 葛根田地熱発電所
- その他特記事項: 日本百名谷、沢スタンダード10選、名渓62選掲載
GPSデータご利用時の注意
本記事で公開しているGPXデータは、当日の記録に基づくものです。
ご利用にあたっては、次の点にご注意ください。
水量、気温、岩のヌメリ、天候などの状況は日々大きく変化しており、同じ沢でも条件は常に異なります。
核心部の通過可否、危険箇所の状態、高巻きルートの状況は、その時々の水量や岩場状態、体調・装備により大きく変わります。
GPXデータはあくまで参考情報であり、通過の安全を保証するものではありません。
ご自身の技術・経験・体力、装備、当日の水量・気象条件を十分に考慮し、無理のない計画と慎重な行動を心がけてください。
不安がある場合は、経験者と同行するか、公的機関の水量情報や沢登りガイドのサービスの利用を検討してください。

