【山岳紀行】

【山岳紀行】八ヶ岳 赤岳 ー 師走、十一の影と岩稜

北村 智明

年の瀬も迫る十二月末、八ヶ岳連峰の赤岳へ。南峰リッジ、主稜、南沢大滝――。寝不足と強風、ホワイトアウトと戦いながら、十一名の仲間と過ごした三日間のテント泊は、厳冬期の山が突きつける試練と歓びに満ちていた。毎年恒例の冬季山行として綴る、師走の八ヶ岳紀行。


第一部:不眠の代償

福島を発ったのは深夜二時であった。年の瀬の静寂を切り裂き、車を走らせる。前夜は準備に追われ一睡もできていない。疲労は既に身体の奥底に澱のように溜まっていた。

午前九時過ぎ、美濃戸口のやまのこ村駐車場に到着した。しかし、ここで予期せぬ事態が起きた。林道で車が登らない。雪と凍結で路面状況が悪く、時間をかけて慎重に進むしかない。ようやく美濃戸に辿り着いた時には、予定より少し遅れていた。

標高2,899メートルを誇る八ヶ岳連峰の最高峰、赤岳は、酸化鉄に由来する赤褐色の山肌をもつ。深田久弥が日本百名山に選んだこの山は、南八ヶ岳の盟主として、冬季には氷瀑のアイスクライミングやバリエーションルートで知られる岩稜の山である。

我々十一名は、毎年恒例となったこの師走の山行を心待ちにしていた。今回の計画は三日間で、パーティーを分け、南峰リッジ、阿弥陀北稜、赤岳主稜、石尊稜をそれぞれ攀じる予定であった。重いテント泊装備を背負い、樹林帯の登山道を進んだ。

美濃戸から約一時間半、午後一時半頃に行者小屋のテント場に着いた。設営を終え、身支度を整える。テント場の周囲をキツネが悠然と歩いていた。人慣れしているのか、我々の気配にも動じない。冬の山小屋周辺では、時折こうした野生動物の姿を見かける。

南峰リッジは赤岳主稜と並ぶバリエーションルートの一つで、赤岳南峰の山頂標に直接突き上げるマイナーなルートである。スケールでは主稜に劣るが、残置が少なく、自分たちのスタイルで登れる魅力がある。

午後二時過ぎ、赤岳・阿弥陀岳分岐を目指して行者小屋を出発した。一般登山道を離れ、南峰リッジの取り付きへ向かう。しかし、身体が思うように動かない。一睡もしていない身体は、ここにきて限界を迎えつつある。足取りは重く、判断力が鈍っているのを自覚した。

不安は確かにあった。このまま核心部に入れば、致命的なミスを犯しかねない。慎重を期して、もう一度自分の状態を見極める必要がある。過去にも同じ理由で南峰リッジを諦めたことがある。その時の記憶が蘇る。

午後三時過ぎ、我々は撤退を決断した。協議の末、全員がその判断を支持した。悔しさはある。しかし、安全を最優先する判断は間違っていない。自分の技術を過信してはならない。

行者小屋へと引き返した。テントに戻り、夕食の準備をする。しかし、この夜も安眠は訪れなかった。肩の疼きが身体を襲い、寝返りを打つこともままならない。明日は赤岳主稜だ。万全とは言い難いが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。谷底は急速に冷え込んでくる。星空が広がり、冬の八ヶ岳の静寂が我々を包んだ。


第二部:主稜と忘年の宴

翌朝、午前六時過ぎに行者小屋を出発した。空は快晴である。八ヶ岳ブルーを予感させる青空が広がり、気持ちも新たに赤岳主稜へと向かう。主稜は八ヶ岳のバリエーションルートの中でも入門的な位置づけだが、核心部では本格的なクライミングが求められる。ルートグレードは1級とされるが、核心では積雪次第でピッチグレードⅣ級相当の技術が必要だ。

赤岳・阿弥陀岳分岐に到達したのは午前七時十七分である。ここから主稜の取り付き、チョックストーンへ。ハーネスを締め、アイゼンを装着する。ダブルロープとヌンチャクを確認した。

しかし、持病の痛みは相変わらずである。核心部でのリードは難しいと判断し、信頼をおくパートナーSに任せることにした。我々は互いの状態を見極め、役割を分担する。

核心部のチョックストーンが目前に迫る。岩、雪、氷が複雑に絡み合うミックス壁である。ここからが本格的なクライミングだ。岩に取り付き登攀が始まった。天候は良好だが、風が強い。稜線に出ると、風が一層強まった。

岩と雪と氷が混在するミックス帯を慎重に登る。アックスを雪面や氷に打ち込み、足元を確かめながら高度を上げていく。慎重にムーブを選ぶ。寒さとの戦いである。手がかじかみ、感覚が遠のく。しかし、立ち止まるわけにはいかない。

我々八名全員が通過するには時間がかかる。石尊稜を目指した三名は別行動である。確保と登攀を繰り返し、ようやく上部の岩壁を抜けた。午後一時半過ぎ、赤岳頂上山荘が見えてきた。そして午後一時四十分過ぎ、赤岳の山頂に立った。

眼下に広がる景色は圧巻である。富士山が青空を背景に堂々とした姿を見せていた。裾野まで雪に覆われたその山容は、この上なく端正である。南アルプス、中央アルプス、北アルプスの峰々が連なり、本州中部の名峰をすべて掌中に収めたかのような、圧倒的な大展望が広がっていた。

風は容赦なく吹き付ける。体感温度は氷点下二十度を下回るだろう。疲労は抜けていないが、この景色を前にすれば、そんなことも一瞬忘れる。仲間たちと山頂での時間を共有した。

下山を開始する。文三郎尾根を下り始めると、不思議なことに風が弱まってきた。登攀中のあの強風が嘘のように、穏やかな空気が流れている。暖かささえ感じる。山の気まぐれとはこういうものか。

午後二時過ぎに核心部まで戻り、慎重に下降する。午後二時半過ぎに赤岳・阿弥陀岳分岐を通過し、行者小屋へと戻った。

テントに入り、ようやく緊張が解ける。今日の登攀は、厳しくも実り多いものだった。疲労はあるが、充実感が身体を満たしている。

夕刻、仲間たちと酒を酌み交わした。師走の忘年会である。それぞれのパーティーが今日の山行を語り合い、笑い声が谷間に響く。しかし、石尊稜を目指したパーティーがまだ戻ってこない。時間が経つにつれ、不安が募る。

午後七時頃、闇の中に小さな光が揺れているのが見えた。ヘッドライトだ。行者小屋のテント場に、石尊稜組の三名が姿を現した。ようやく全員の無事を確認できた。安堵の息が漏れる。遅くなった理由を聞けば、核心部での時間がかかったという。冬の山では、予定通りにいかないことも多い。無事に戻ってきたことが何よりだ。

夜は更けていく。星空が広がり、冬の八ヶ岳の静寂が我々を包んだ。明日は最終日だ。天候次第で南沢大滝を目指す。


第三部:氷瀑、そして下界へ

最終日、天候は一変していた。前夜は強風でテントが激しく揺れ、何度も目が覚めた。午前七時過ぎに行者小屋を出発したが、強風が吹き荒れている。雪が舞い、視界が悪い。当初の計画では、さらなるバリエーションルートを目指す予定だったが、この天候では無理だ。

我々は計画を変更し、南沢でのアイスクライミングに切り替えた。南沢大滝は高さ40メートルから50メートル、傾斜も垂直に近く、八ヶ岳を代表するバーティカルアイスの登竜門とされる。しかし、今回はアイススクリューなどの本格的なアイスクライミング装備を持っていない。回り込んでトップロープをかけられる小滝で楽しむことにした。

午前八時過ぎ、中ノ行者小屋跡を通過し、南沢へと向かった。午前八時半過ぎ、まず南沢小滝に到着した。高さ10メートルほどの垂直な氷瀑である。風は穏やかで、視界も良好だ。アイゼンを装着し、トップロープを設置する。

氷にアックスを打ち込む感触が、手に伝わってくる。足元のアイゼンが氷を捉え、慎重に高度を上げていく。しかし、肩の疼きが襲ってくる。レストを取りながら、少しずつ登る。風は穏やかだが、痛みとの戦いは続く。集中して登り、何とかトップアウトした。ロワダウンで降りる。仲間たちも順番に登攀する。

午前九時前、南沢大滝まで足を延ばした。見上げれば、巨大な氷柱が天に向かって伸びている。圧倒的な存在感である。しかし、本格的な装備がない以上、登攀は断念した。今回は見学のみとする。再び南沢小滝に戻り、午前十一時過ぎまで、交代で氷瀑を楽しんだ。

風は穏やかだが、持病の痛みは変わらない。それでも、限られた時間の中で、我々は南沢小滝を十分に堪能した。

正午過ぎ、下山を開始した。中ノ行者小屋跡を経て、美濃戸山荘、赤岳山荘を通過し、やまのこ村へと下った。全員無事に下山できた。

下山後、もみの湯で汗を流した。身体の芯まで温まる。その後、茅野市内のテンホウで食事をし、ツルヤで買い物をする。山から下界へと戻る、この時間もまた山行の一部である。

三日間の山行を振り返る。南峰リッジの敗退、主稜の成功、石尊稜組の無事な帰還、そして強風の中でのアイスクライミング。厳冬期の八ヶ岳は、我々に多くのものを教えてくれた。

睡眠不足と持病の痛みに苦しめられた山行だったが、無理をせずに引き返す判断ができたことは良かった。敗退は失敗ではない。次への布石である。山は逃げない。また来年、この地に戻ってこよう。十一名の仲間と過ごした師走の山行は、厳しくも充実したものであった。


記録

  • 日程: 2025年12月28日(日)〜30日(火)
  • メンバー: 11名
  • 山域: 八ヶ岳連峰(長野県・山梨県)
  • ルート:
    • 1日目: やまのこ村 → 美濃戸 → 行者小屋 → 赤岳・阿弥陀岳分岐(南峰リッジ敗退) → 行者小屋
    • 2日目: 行者小屋 → 赤岳・阿弥陀岳分岐 → 赤岳主稜 → 赤岳山頂 → 文三郎尾根 → 行者小屋
    • 3日目: 行者小屋 → 中ノ行者小屋跡 → 南沢小滝 → 南沢大滝(見学のみ) → 美濃戸 → やまのこ村
  • 行動時間:
    • 1日目: 山行4時間56分、休憩59分、合計5時間55分
    • 2日目: 山行4時間02分、休憩4時間15分、合計8時間17分
    • 3日目: 山行2時間03分、休憩3時間00分、合計5時間03分
  • 宿泊形態: テント泊(行者小屋テント場)
  • 天候:
    • 1日目: 晴れ
    • 2日目: 晴れ、強風
    • 3日目: 曇り、強風
  • 難易度:
    • 赤岳主稜: 1級(核心部Ⅲ-Ⅳ級相当)
    • 南沢小滝: アイスクライミング(トップロープ)
  • スタート地点: 福島県内(深夜2時発) → やまのこ村
  • その他特記事項:
    • 林道で車が登らず時間がかかった
    • 当初は十一名でパーティー分けし、南峰リッジ、阿弥陀北稜、赤岳主稜、石尊稜を攀じる予定
    • 3日目は強風のため南沢小滝に変更(大滝は偵察のみ)
    • アイスはスクリュー等なし、トップロープで楽しむ下山後、もみの湯、テンホウ(茅野)、ツルヤに立ち寄り

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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