【深層考察・番外編】

【深層考察・番外編】登山装備の進化史(前編)|わらじから化学繊維革命まで

北村 智明

現代の登山者は、ゴアテックスのレインウェア、ビブラムソールの登山靴、超軽量カーボンフレームのザックを身につけて山に登る。しかし、100年前の登山家たちは、重い革靴、綿のシャツ、木製のピッケルで8,000m峰に挑んでいた。

装備の進化は、登山の歴史そのものだ。

不可能とされた山が登られるようになったのは、人間の勇気だけではない。素材革命、技術革新、そして無数の試行錯誤が、登山という行為を根本から変えてきたのである。

わらじで富士山に登った江戸時代の庶民から、ゴアテックスを纏う現代の登山者まで。前編では、古代から平成初期までの装備進化を追う。


【記事情報】

  • 難易度: 初級〜中級
  • 対象: 登山装備に興味がある人、登山歴史ファン
  • 記事タイプ: 装備史・技術解説(前編)
  • 文字数: 約6,500字
  • キーワード: 登山装備、登山靴、わらじ、ゴアテックス、進化

古代〜江戸時代:自然素材の時代

わらじと草鞋での登山

江戸時代、富士講の庶民たちはわらじ(草鞋)で富士山に登っていた。現代の感覚では信じられないが、当時の日本人にとって、わらじは最も一般的な履物だったのである。

わらじの利点は、意外にも多い。

わらじの特徴

  • 軽量性:片足わずか50g程度
  • フィット性:足に巻きつけるため密着度が高い
  • グリップ:濡れた岩でも意外と滑りにくい
  • 修理可能:現地で編み直せる
  • 安価:誰でも手に入る

しかし、欠点も明白だった。

わらじの欠点

  • 耐久性:1日で履きつぶす
  • 防水性:皆無
  • 保温性:ほとんどない
  • 怪我のリスク:石や岩で簡単に傷つく

それでも、庶民にとってわらじ以外の選択肢はなかった。富士講の記録には、「草鞋を3足持参すべし」という記述が頻繁に見られる。登山中に何度も履き替える前提だったのだ。

修験者の装備

一方、修験道の山伏たちは、より実践的な装備を持っていた。

履物

  • 皮製の足半(あしなか):つま先だけを覆う簡易的な履物
  • 脚絆(きゃはん):脛を保護する布
  • 場合によっては裸足

衣類

  • 麻や木綿の白装束
  • 袈裟(けさ)
  • 頭襟(ときん):額当て

道具

  • 金剛杖(こんごうづえ):現代のトレッキングポールの原型
  • 錫杖(しゃくじょう):音で熊を威嚇
  • 法螺貝(ほらがい):仲間との連絡手段

これらの装備は、宗教的な意味合いが強いものの、実用性も兼ね備えていた。特に金剛杖は、体重を支え、バランスを取り、危険を察知する多機能な道具として、現代のトレッキングポールの先祖と言える。

江戸時代の富士講装備

富士講の登山者たちの標準装備は、以下のようなものだった。

基本装備

  • 白装束(死装束の意味も含む)
  • わらじ3足
  • 金剛杖
  • 手甲・脚絆
  • 菅笠(すげがさ)

携行品

  • 弁当(握り飯)
  • 水筒(竹製)
  • 手拭い

重量:全体でせいぜい3〜5kg程度

現代の日帰り登山装備と比べると、驚くほど軽量だ。しかし、防寒性や防水性はほぼゼロ。天候が荒れれば、命に関わる状況になったのである。


明治〜大正:近代装備の導入

革製登山靴の登場

明治時代、西洋の近代登山が日本に紹介されると、革製の登山靴が輸入され始めた。

1894年、ウォルター・ウェストンが日本アルプスを登った際、彼が履いていたのはヨーロッパ製の革製登山靴だった。これを見た日本人登山家たちは衝撃を受けたという。

初期の革製登山靴の特徴

  • 素材:牛革、馬革
  • 重量:片足800g〜1,200g(わらじの約20倍)
  • ソール:革底、後に釘打ち底
  • 防水:蜜蝋や油で処理

当初、日本の登山家の多くは「重すぎる」と敬遠した。実際、1,000m級の山を登るには、わらじの方が軽快だったのである。

しかし、岩場や雪渓では革靴の優位性が明白だった。

革製登山靴の利点

  • 足の保護:岩角から足を守る
  • アイゼン装着:冬山登山が可能に
  • 耐久性:適切な手入れで数年使える
  • 安定性:重い荷物でも足元がしっかり

大正時代には、日本でも革製登山靴の生産が始まり、徐々に普及していった。

ウール素材の衣類

明治以前、登山の衣類は麻や木綿が中心だった。しかし、これらの素材には致命的な欠点があった。

綿・麻の欠点

  • 濡れると乾かない
  • 保温性が極端に低下
  • 重くなる
  • 凍結する

西洋から導入されたウールは、革命的だった。

ウールの利点

  • 濡れても保温性を維持(60%程度)
  • 吸湿性が高い
  • 防臭効果
  • 難燃性

大正時代の登山家たちは、ウールのシャツ、ニッカーボッカー、セーターを着用するようになった。これにより、高所での行動が格段に安全になったのである。

特に、1920年代の日本アルプスでは、「ウールのニッカーボッカーに革製登山靴」というスタイルが標準装備となった。

木製ピッケルとザイル

ピッケル(氷斧)は、もともとアルプスの氷河歩行用に開発された道具だ。

明治〜大正期のピッケルは、以下のような構造だった。

木製ピッケルの仕様

  • シャフト:トネリコ材などの硬木
  • ヘッド:鍛造鉄
  • 長さ:90〜120cm(現代より長い)
  • 重量:800g〜1,200g

長いシャフトは、杖代わりにも使えた。現代の短いピッケルは、急斜面専用の進化形と言える。

ザイル(ロープ)も、この時代に日本に導入された。

天然繊維ザイルの仕様

  • 素材:麻、マニラ麻
  • 太さ:10〜15mm
  • 長さ:20〜30m
  • 重量:3〜5kg

天然繊維のザイルは、濡れると重くなり、凍結すると硬直する問題があった。しかし、岩場や雪渓での安全性は飛躍的に向上した。


昭和前期:戦前の装備革命

日本独自の登山靴開発

昭和初期、日本の登山靴メーカーが独自の開発を始めた。

「地下足袋型登山靴」の誕生

日本の岩場には、ヨーロッパ型の重い革靴より、柔軟性のある履物が適していると考えられた。そこで開発されたのが、地下足袋をベースにした登山靴だ。

地下足袋型登山靴の特徴

  • つま先が分かれた(足袋構造)
  • ソール:ゴム底(滑りにくい)
  • 重量:片足300g程度(革靴の1/3)
  • 利点:岩場でのグリップ力、軽快さ

この「地下足袋登山靴」は、日本の岩場で威力を発揮した。特に沢登りでは、濡れた岩でのグリップ性能が高く評価された。

しかし、欠点もあった

  • 耐久性が低い
  • 冬山には不向き
  • 重い荷物を背負うには不安定

結局、ヨーロッパ型の革製登山靴が主流となっていくが、地下足袋型の発想は、後の「フェルト底」「ラバーソール」に受け継がれていく。

ナイロンの登場

1938年、デュポン社がナイロンを発明した。これは登山装備史における革命だった

ナイロンの特性

  • 強度:天然繊維の数倍
  • 軽量:同じ強度なら半分以下
  • 耐水性:ほぼ吸水しない
  • 耐腐食性:カビや腐敗に強い

第二次世界大戦後、ナイロンは民生用に転用され、登山装備に革命をもたらす。

ナイロンザイル

  • 麻ザイルの半分の重量
  • 濡れても性能が落ちない
  • 伸縮性があり、墜落の衝撃を吸収

ただし、初期のナイロンザイルには「岩角での切断」という致命的な欠点があった。1955年の「ナイロンザイル事件」(前穂高岳での墜落死亡事故)は、装備の安全性を問う契機となった。

この事件をきっかけに、ナイロンザイルの改良が進み、現代の安全なクライミングロープへと進化していく。

軽量化への挑戦

昭和10年代、日本の登山家たちは「軽量化」を追求し始めた。

背景

  • 長期縦走の増加
  • 無補給での登山
  • より困難なルートへの挑戦

軽量化の工夫

  • ザックの簡素化(装飾を削ぎ落とす)
  • テントの小型化(1〜2人用)
  • 食料の厳選(カロリー効率重視)
  • 装備の多目的化(1つで複数の用途)

この思想は、現代の「ウルトラライト」に通じるものだ。戦前の登山家たちは、すでに「必要最小限の装備で山に挑む」哲学を持っていたのである。


昭和後期〜平成:素材革命の時代

ゴアテックスの衝撃

1969年、アメリカのゴア社がゴアテックスを開発した。これは登山装備史において、最大級の技術革新と言える。

ゴアテックスとは

  • ポリテトラフルオロエチレン(PTFE)の微多孔質膜
  • 1平方インチに90億個の微細な穴
  • 水滴は通さないが、水蒸気は通す

革命的だった理由

それまでのレインウェアは、「防水」か「透湿」のどちらか一方しか実現できなかった。

  • ゴム引き雨具:完全防水だが、内側が蒸れる
  • 綿のヤッケ:透湿性はあるが、防水性が低い

ゴアテックスは、この矛盾を解決した。

性能

  • 耐水圧:20,000mm以上(バケツの水を余裕で防ぐ)
  • 透湿度:13,500g/㎡/24h(汗の水蒸気を外に逃がす)

1970年代後半、ゴアテックス製レインウェアが登山界に登場すると、瞬く間に普及した。それまで「雨の日は山に登らない」が常識だったが、ゴアテックスによって雨天登山が現実的になったのである。

ただし、初期のゴアテックスは高価だった。1着5万円以上という価格は、当時の大卒初任給の半分近い金額だった。

アルミフレームザックの進化

1970年代、ザック(バックパック)も大きく進化した。

外部フレームザックから内部フレームへ

1960年代までの主流は、外部フレーム型だった。

外部フレーム型の特徴

  • アルミパイプのフレームが外側に露出
  • 高重心で長距離歩行に有利
  • しかし、岩場では引っかかる
  • 見た目がゴツい

1970年代、内部フレーム型が登場した。

内部フレーム型の利点

  • フレームを生地の内側に配置
  • 背中にフィットし、重心が安定
  • 岩場でも引っかからない
  • スマートな外観

この変革により、「重い荷物を長距離」から「軽快に動く」スタイルへと変化していった。

日本で人気のザックメーカー

  • カリマー(イギリス)
  • グレゴリー、オスプレー(アメリカ)
  • ミレー(フランス)
  • 国産:モンベル、カラファテなど

化学繊維の全盛期

ナイロンに続き、様々な化学繊維が登山ウェアに使われるようになった。

ポリエステル

  • 速乾性が高い
  • 軽量
  • 保温性(中綿として)
  • 吸汗速乾シャツに最適

ポリプロピレン

  • 最軽量の繊維
  • 吸水しない(濡れても重くならない)
  • アンダーウェアに最適

フリース(ポーラテック)

  • 1980年代に登場
  • ウールより軽く、速乾性が高い
  • 保温性はウール並み
  • 洗濯が簡単

これにより、「重くて乾かないウール」から「軽くて速乾のフリース」へと移行した。

1990年代には、ほとんどの登山者がフリースを着用するようになり、ウールは一時期、時代遅れとされた(ただし、近年は天然素材として再評価されている)。

登山靴の進化:革からナイロンへ

1980年代、登山靴にも革命が起きた。

ナイロン製登山靴の登場

  • アッパー:革ではなくナイロン生地
  • 重量:革靴の半分(片足400g程度)
  • メンテナンス:ほぼ不要
  • 価格:革靴より安価

利点

  • 軽量で疲れにくい
  • 速乾性が高い
  • 初心者でも扱いやすい

欠点

  • 耐久性は革より劣る
  • 重登山には不向き
  • 修理が困難

現代では、「日帰り・小屋泊はナイロン製」「テント泊・冬山は革製」という使い分けが一般的になっている。


まとめと後編予告

前編のまとめ

わらじで富士山に登った江戸時代から、ゴアテックスが登場した1970年代まで、登山装備は劇的に進化した。

主な変革

  1. 履物:わらじ → 革靴 → ナイロン製登山靴
  2. 衣類:麻・綿 → ウール → 化学繊維
  3. レインウェア:なし → ゴム引き → ゴアテックス
  4. ザイル:麻 → ナイロン
  5. ザック:外部フレーム → 内部フレーム

これらの進化により、登山は「命がけの冒険」から「より安全なアクティビティ」へと変化した。

しかし、装備の進化は止まらない。

後編予告

後編では、以下の内容を解説します:

令和のハイテク装備

  • カーボン・チタン素材の超軽量化
  • スマートウォッチ・GPS機器
  • LED化したヘッドランプ
  • 最新の防水透湿素材

未来の登山装備

  • グラフェン、エアロゲルなどの次世代素材
  • AIアシスタント、ARグラス
  • 環境配慮型装備

FAQ

  • 昔の装備で今も使えるものは?
  • 最新装備を揃えるといくら?
  • 軽量化しすぎは危険?

装備進化の哲学

  • 技術と人間の関係
  • 「道具に頼りすぎない」ことの重要性

前編で見てきたように、装備の進化は登山を変えた。しかし、最も重要なのは、装備を使う「人間の判断力」であることを、後編では深く掘り下げていく。


参考文献・さらに学びたい方へ

📚 書籍

登山装備史

  • 『登山用具の歴史』石川三四郎(山と溪谷社、1987年)
  • 『山道具メーカー列伝』山と溪谷社編(山と溪谷社、2015年)
  • 『ゴアテックスの秘密』大森義彦(講談社ブルーバックス、2005年)

登山史

  • 『日本登山史』日本山岳会編(白水社、1956年)
  • 『近代登山の父 ウォルター・ウェストン』青木枝朗(山と溪谷社、1984年)
  • 『日本百名山』深田久弥(新潮文庫、1982年)

技術書

  • 『山岳装備大全』山と溪谷社編(山と溪谷社、2019年)
  • 『軽量登山の教科書』高橋庄太郎(山と溪谷社、2016年)

🌐 公式機関・メーカー

  • 日本山岳会(JAC):https://www.jac.or.jp/
  • モンベル:https://www.montbell.jp/
  • ゴア社(ゴアテックス):https://www.gore-tex.jp/

📰 専門雑誌

  • 『山と溪谷』(山と溪谷社、1930年創刊)
  • 『岳人』(東京新聞、1946年創刊)
  • 『PEAKS』(枻出版社、2009年創刊)

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北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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