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【山岳紀行】横岳西壁・石尊稜 ― 厳冬なき二月、岩と雪の稜線をゆく

北村 智明

二〇二六年二月、日本列島を覆った記録的な暖気は、八ヶ岳の岩壁からも冬の装いを奪い去ろうとしていた。
私たちの思惑は、美濃戸口に降り立った瞬間に霧散した。シャツ一枚で歩けるほどの陽光。それは登山者として戸惑いを禁じ得ない光景であった。
標的を氷から岩稜へと変え、私たちは石尊稜の核心部へと取り付く。不安定な雪と露岩が混在するルートは、今の八ヶ岳を象徴するような難しさを孕んでいた。異常気象下でのアルパインクライミング。山を愛する者として綴る冬季登攀紀行。


第一部:異例の暖気、赤岳鉱泉への途上

福島を発ったのは前日の夜であった。高速道路を西へと車を走らせながら、Kと山行計画を練り直す。当初の目的はアイスクライミングであった。しかし、週末の気温予報を見る限り、氷の状態は絶望的だ。スマートフォンの画面に表示される気温は、二月半ばとは思えぬ数値を示している。

アイスが駄目なら、岩と雪のミックスルートだ。柔軟な判断こそが、山での安全を担保する。前年、八ヶ岳で大きな滑落事故があったばかりである。我々は一層、慎重さを心に刻んだ。

八ヶ岳は本州中央部に位置する火山群で、その最高峰は標高二千八百九十九メートルの赤岳である。南北に連なる山々は、冬季には本格的なアルパインクライミングのフィールドとして知られている。石尊稜は横岳西壁を登る古典的なルートで、下部岩壁、雪稜、上部岩壁と変化に富んだ登攀が楽しめる。

車窓から見える中央自動車道沿いの山々は、例年より明らかに雪が少ない。温暖化の影響だろうか。近年、冬山の様相は確実に変わりつつある。それでも、山は変わらずそこにある。我々を迎え入れ、そして試す存在として。

美濃戸口に着いたのは午前十一時過ぎ。駐車場には既に何台もの車が停まっていた。二月半ばだというのに、陽光は春めいて暖かい。ハードシェルをザックに仕舞い込み、長袖シャツ一枚で歩き始めた。夏山の装いである。この暖かさは、冬山登山者としては複雑な心境だ。

三日分の食料を詰め込んだザックは二十五キロを超えていた。美濃戸山荘を過ぎ、赤岳鉱泉への道を辿る。樹林帯の雪は思いのほか少ない。所々で地面が露出し、枯れ葉が顔を覗かせている。暑さが身体にまとわりつく。標高千六百メートルを超える地点とは思えぬ気温だ。

汗が額を伝う。重い荷を背負い、登りの道を黙々と進む。呼吸のリズムを整え、一歩一歩を確実に。やがて木々の間から、遠く雪を纏った山稜が見えた。あの岩壁を、明日は登る。不安はある。しかし、それ以上に、岩と雪に触れる期待が胸を満たしていた。

堰堤広場を過ぎた頃、ようやく日が傾き始めた。木漏れ日が雪面を照らし、白い輝きを放つ。赤岳鉱泉に到着したのは午後三時四十二分。

テントを設営し、明日の準備をする。ロープ、カラビナ、ハーネス。装備を一つ一つ確認する作業は、心を落ち着かせる儀式のようなものだ。

夕食は餃子と鍋。Kと明日のルートを確認しながら、湯気の立つ鍋を囲んだ。こうして鍋を囲み、明日の計画を語り合う時間は、昔も今も変わらない。

山が黒い。テントから見上げる横岳西壁は、雪の付きが例年より明らかに少ない。それでも、石尊稜への期待は消えない。慎重を期しながらも、この稜線を登り切る決意を新たにした。星が瞬き始めた夜空の下、我々は静かに眠りについた。


第二部:横岳西壁、岩と雪との対話

二月十五日、午前七時三十九分、赤岳鉱泉を出発した。想定よりやや遅いスタートである。ザックに荷を詰める。今日一日の全てが、この荷の中にある。

一般登山道を進み、柳川右俣への分岐を目指す。しかし、ここで道を誤った。三十分ほどのロスである。ルートファインディングの甘さを反省する。

軌道を修正し、下部岩壁の取り付きに到着したのは午前十時頃。赤岳鉱泉では大勢の登山者で賑わっていたが、ここまで来ると静寂が戻る。隣の三叉峰ルンゼを見ると、アイスクライミングのパーティが取り付いている。一ピッチ目を見る限り、氷というより雪壁だ。やはり氷の状態は厳しい。我々の判断は正しかった。

第一ピッチは草付きフェース、五十メートル、Ⅳ級。私がリードを取った。岩に手をかける。八ヶ岳特有の安山岩は、粗く、しかし手に馴染む感触だ。斜度は寝ており、ホールドも豊富である。右手でホールドを掴み、左手のアックスを岩の割れ目に引っかける。足元を確認し、クランポンの前爪を岩の窪みで立ち込む。一歩、また一歩と高度を上げていく。

風が頬を撫でる。呼吸は整っている。恐怖はない。あるのは、岩と対峙する緊張と、それを乗り越える充実感だけだ。途中に終了点らしきものがあり、ここで一度ピッチを切った。二ピッチ目も同様に登る。快適な登攀だ。

第二ピッチは岩混じりの雪稜、二百五十メートル。ここはコンテで進む部分もあった。雪面を蹴り、アックスを刺し、リズムよく高度を稼ぐ。しかし、一箇所だけ雪付きが悪く、ボロい岩が露出している箇所があった。慎重を要する。足元を見極め、三点確保を心がけながら通過する。

例年ならもっと雪があって楽に登れるだろう。しかし、この条件こそが、技術を磨く良いトレーニングだ。不安定な雪と岩のミックス。それを乗り越えることで、我々は強くなる。

Kと私は、言葉少なに進んだ。長年の山行で培った呼吸がある。ロープの張り具合、足音、呼吸のリズム。全てが、互いの状態を伝える言語だ。

第三ピッチは上部岩壁。凹角からリッジを辿り、ピナクルへと向かうⅢ級の岩場である。支点は豊富で、快適な岩登りができる。ここも二ピッチに分けた。

高度感が増す。眼下には樹林帯が広がり、遠くには南アルプスの山々が霞んで見える。風が強まった。頬を打つ冷気が、ようやく冬らしさを感じさせる。

第四ピッチは右のルンゼ、八十メートル。最初の四十メートルはロープを出したが、その先は状態が良好だと判断し、コンテで石尊峰へとトップアウトした。午後四時四十八分。

達成感が胸を満たす。しかし、それを表に出すことはしない。山は、まだ我々を下ろしてはいないのだから。Kと目を合わせ、無言で頷き合った。下山が残っている。

地蔵の頭から地蔵尾根を辿り、行者小屋方面へと下る。夕闇が迫る中、ヘッドランプの明かりを頼りに慎重に下降した。疲労が足に溜まる。それでも、足を止めるわけにはいかない。一歩一歩を確実に、安全に。

テントに戻ったのは午後六時五十五分。既に暗闇が辺りを包んでいた。夕食はもつ煮。温かい汁が、冷えた身体に染み渡る。Kと今日の山行を振り返る。言葉は少ない。しかし、互いに理解し合っている。今日一日、我々は良い登攀をした。それだけで十分だった。


第三部:風の稜線、登攀の余韻を噛み締めて

二月十六日、午前八時三十六分、赤岳鉱泉を後にした。テントを撤収し、荷をまとめる。当初は峰の松目へアイスクライミングに向かうことも考えていた。しかし、この気温では絶望的だ。素直に下山することにした。

登山道はスケートリンク

下山路は雪が消え、地面が露出している箇所が増えていた。二月半ばとは思えぬ光景だ。

枯れ葉を踏みしめながら、樹林帯を下る。疲労が足に溜まっている。それでも、心はどこか軽い。

美濃戸口に到着したのは正午過ぎ。八ヶ岳から下山し、心地よい疲れの中で駆け込んだ「J&N」。ログハウス風の清潔感あふれる店内に、食欲をそそる香りが漂う。

注文したボロネーゼが運ばれてきて驚いた。パスタが見えないほどたっぷりと注がれたソースには、粗挽きの肉がゴロゴロと転がっている。一口食べれば、赤ワインと香味野菜の深み、そして肉の力強い旨味が口いっぱいに広がる。

ボロネーゼパスタは1600円

登山者の胃袋をしっかり満たしてくれるボリュームが嬉しい。添えられた粉チーズが芳醇な香りと濃厚さをさらに加速する。下山後の空腹をこれ以上なく幸せに満たしてくれる、最高のご褒美メシだった。Kと向かい合い、昨日の登攀を静かに振り返る。道を誤り三十分をロスしたこと、雪付きが悪い箇所で慎重を要したこと。失敗もあった。しかし、それも含めて山行である。完璧な登攀など存在しない。

白州塩沢温泉フォッサマグナの湯で汗を流し、帰路に就いた。車窓から八ヶ岳を眺める。夕日に照らされた山稜は、一日の終わりを告げるように静かに染まっていた。

雪の少ない年ではあったが、それゆえに岩の感触を存分に味わうことができた。異常な高温、計画変更、道迷い。思い通りにならないことばかりだったが、山はそういうものだ。石尊稜の岩と、あの青空の記憶は確かに残った。それで十分である。


【記録】

日程: 2026年2月14日(土)〜16日(月)
メンバー: 2名
山域: 八ヶ岳・横岳西壁(長野県)
ルート: 美濃戸口 → 赤岳鉱泉(泊) → 石尊稜登攀 → 赤岳鉱泉(泊) → 美濃戸口

行動時間:

  • 1日目: 行動 4時間04分 / 休憩 0時間10分 / 合計 4時間14分(美濃戸口〜赤岳鉱泉)
  • 2日目: 行動 8時間50分 / 休憩 2時間26分 / 合計 11時間16分(石尊稜登攀)
  • 3日目: 行動 3時間12分 / 休憩 0時間25分 / 合計 3時間37分(赤岳鉱泉〜美濃戸口)

宿泊形態: テント泊(赤岳鉱泉)、2000円/人・1泊

天候:

  • 1日目: 晴れ
  • 2日目: 晴れ
  • 3日目: 晴れ
  • ※異常な高温

難易度: ルートグレード1級上

ルート詳細:

  • アプローチ:柳川右俣の橋から鉾岳ルンゼ方面から尾根に乗り上げる
  • 1P: 下部岩壁、草付きフェース 50m、Ⅳ級(2ピッチに分割して登攀)
  • 2P: 岩混じりの雪稜 250m(コンテ・スタカット併用)
  • 3P: 上部岩壁、凹角〜リッジ〜ピナクル、Ⅲ級(2ピッチに分割して登攀)
  • 4P: 右のルンゼ 80m(前半スタカット、後半コンテ)
  • 下降:石尊峰→鉾岳→日ノ岳→地蔵ノ頭→地蔵尾根→行者小屋分岐

装備:

  • ハーネス、ヘルメット
  • ダブルロープ50m✕2本
  • カラビナ類、スリング類
  • バリエーションルート用アックス、クランポン
  • 冬季登攀用装備一式

核心部:

  • 第1ピッチの草付きフェース(Ⅳ級)、乗越が嫌らしい
  • 第2ピッチの雪付きが悪い箇所

注意点:

  • 例年より雪が少なく、岩のミックス登攀となる可能性

推奨時期: 1月下旬〜3月上旬(積雪・気温条件による)

その他特記事項:

  • 2026年2月は異常な高温で雪が少ない状態
  • 当初はアイスクライミング予定だったが、気温を考慮し石尊稜に変更
  • 三叉峰ルンゼでもアイスの状態は雪壁に近い状況
  • 駐車料金800円/日(コーヒー付き)

立ち寄りスポット



Download file: yatsugatake-yokodake-sekison-ryo.gpx

GPSデータ利用上の注意

このGPSデータは、実際に歩いたルートを記録したものですが、以下の点にご注意ください:

  • 岩質・雪質は常に変化します: 記録時と異なる状態である可能性が高く、特に融雪期や降雪直後は要注意です
  • グレードは目安です: 登攀者の技術レベル、装備、気象条件により体感難易度は大きく変わります
  • 冬季バリエーションルートです: 高度な登攀技術、雪山経験、ロープワーク技術が必須です。必ず適切なトレーニングを受けてから挑戦してください
  • 撤退判断を最優先に: 気象条件、体力、時間を常に考慮し、無理な登攀は避けてください
  • 現地での判断を優先: GPSデータはあくまで参考情報です。実際のルート選択は現地の状況に応じて行ってください
  • 最新情報の入手: 山小屋、地元山岳会、気象情報などから最新の状況を必ず確認してください

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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