【山岳紀行】

【山岳紀行】甲斐駒ヶ岳・黄蓮谷右俣 ー 撤退という決断

北村 智明

十二月中旬、南アルプスの甲斐駒ヶ岳へ。長年の企画がようやく実現した黄蓮谷右俣は、雪と氷に覆われた美しい回廊であった。しかし、奥千丈の滝を越えて撤退を決断する。撤退もまた山行の一部として綴る、冬のアルパインアイスクライミング紀行。


第1部:黒戸尾根の重荷

福島を発ったのは前日の夜であった。甲斐駒ヶ岳の黄蓮谷右俣—南アルプスを代表するアイスアルパインルートとして知られ、ルートグレード3級上、ピッチグレードⅣマイナスと評される入門的な氷雪ルート—への挑戦は、何度も計画しては氷結状態や積雪で阻まれてきた。今回は例年より一週間早い入山を選んだ。ようやく実現する企画に、期待と不安が入り混じる。

十二月十四日、尾白川渓谷駐車場に車を停める。五名のメンバー、私とS、もう一人のS、T、そしてYである。二十五キログラムを超えるザックを背負い、黒戸尾根に取り付いた。アイスクライミング装備一式、テント、三日分の食糧。重量は容赦なく肩に食い込む。

普段使わないザックは腰ではなく肩に荷重がかかる。一歩一歩が重く、呼吸が深くなる。斜度がきつくなる頃には、すでに疲労が蓄積し始めていた。針葉樹林の中を黙々と登る。汗が背中を濡らし、冷気が身体を冷やす。

笹の平分岐を経て、刃渡りへ。足元には薄く雪が積もる程度である。岩稜が続き、冬枯れの木々が空を切り取る。刀利天狗を過ぎ、標高を稼ぐ。重いザックが身体のバランスを崩そうとするが、慎重に足を運ぶ。メンバーも同様に疲労の色を見せていた。しかし、誰も弱音を吐かない。

五合目小屋跡に到着したのは午後四時過ぎであった。稜線に近いこの地点は風が冷たく、気温は急速に下がっていた。テントを張る作業が一日で最も過酷な時間となった。凍えた指でペグを打ち、ポールを立てる。六人用テントに五人。狭いが、その分密着度が高く、寒さを感じることなく眠ることができた。

夕食の準備をしながら、明日の計画を確認する。六丈沢を下降し、黄蓮谷右俣へ入渓。坊主の滝を越え、奥千丈の滝を登る。順調に行けば七丈小屋へ辿り着けるだろう。しかし、冬山に順調などというものはない。常に撤退の可能性を念頭に置いておかねばならない。

外ではふたご座流星群が夜空を彩っているはずだったが、寒さがそれを確かめる余裕を奪っていた。テントの中で身体を丸め、明日に備える。長年待ち望んだ黄蓮谷が、すぐそこにある。


第2部:氷結の回廊

十二月十五日、夜明け前にテントを出る。星が瞬き、東の空がわずかに白み始めていた。少し登って六丈沢へ下降を開始した。谷底へ降りていく。雪に覆われた斜面は滑りやすく、一歩一歩が慎重を要する。

やがて、黄蓮谷右俣に入渓した。谷は雪と氷に覆われ、静謐な美しさを湛えていた。白い回廊が奥へ奥へと続く。滑滝が連続し、氷結した水流が朝日を受けて輝く。前日の重荷行の疲労は残っていたが、目の前に広がる氷の世界は私たちを引き込んだ。

カンプのブレードランナーが雪を噛み、ミゾーのピッケルが氷を捉える。足元の感覚を確かめながら、慎重に高度を稼いでいく。滑滝が次々と現れるが、いずれも登攀を阻むほどではない。むしろ、楽しさを感じさせる程度の傾斜である。

しかし、その後にゴーロ帯が続いた。岩が累々と積み重なる区間は単調で、時間を消費する。重いザックが肩に食い込み、疲労が蓄積していく。時計を見る。予定よりも時間がかかっている。

やがて、核心部である坊主の滝が姿を現した。氷結状態は良好である。一ピッチ目をフォローで登る。氷の質は良く、ピッケルもアイゼンもしっかりと効く。しかし、前日の疲労が身体の動きを鈍らせていた。呼吸が荒く、腕に力が入りにくい。

二ピッチ目は私がリードを取った。アイススクリューを駆使しながら高度を稼いでいく。氷に打ち込むピッケルの感触、足元のアイゼンが氷を噛む音。身体は疲れているが、集中力は途切れない。技術的な困難は少なかったが、疲労との戦いであった。

坊主の滝を越えると、再びゴーロ帯が続く。岩を越え、雪を踏み、淡々と進む。時間だけが過ぎていく。やがて、奥千丈の滝が立ちはだかった。核心部は三十メートルほどだが、全体では二百メートル近い滝である。

リードで登り始めた。グレードはⅢ級上程度、アイスクライミングとしての難易度は高くない。ピッケルを打ち込み、慎重に高度を稼ぐ。氷の質は悪くなく、技術的な困難もなかった。淡々と、しかし確実に登っていく。

滝を登り切った時、メンバーのYが体調不良を訴えた。

撤退を決断した。


第3部:必然としての撤退

後ろ髪を引かれる思いであった。ここまで来たのだ。あと少しで詰めに入れる。しかし、冷静に現在の時刻と我々のペース、そして詰めの積雪状況を考えると、このまま進行すれば今日中に小屋へ到着できるか疑わしい。疲労も蓄積していた。時間がかかっていたのだ。メンバーの安全を考えれば、撤退は妥当な判断である。

概ね来たルートを戻る。奥千丈の滝を懸垂で下降し、長いゴーロを逆に辿り、黄蓮谷を後にする。美しい氷の回廊に別れを告げた。

谷を離れ、黒戸尾根へ戻る登り返しが待っていた。この登りが、一日で最も過酷な時間となった。疲労の限界が近い。足が重く、一歩が出ない。呼吸が荒く、心臓が激しく打つ。脱水の兆候も感じていた。喉が渇き、唇が乾く。

夜空にはコールドムーンが昇り、満月の光が雪面を照らしていた。青白い光が私たちの影を長く伸ばす。その光を頼りに、私たちは黙々と高度を稼いだ。誰も口を開かない。ただ、足を動かし続けるのみである。

七丈小屋に辿り着いたのは午後六時過ぎであった。小屋の灯りが見えた時、安堵が身体を包んだ。小屋に入ると、温かさが凍えた身体を溶かしていく。小屋番として、ピレオドール賞を受賞した花谷泰広氏が在籍していた。山岳界の第一人者がこの小屋にいる。それだけで、この小屋の価値が分かる。

ザックを下ろし、濡れたウェアを脱ぐ。ビールを喉に流し込む。脱水で渇いた身体に染み渡る冷たさが、この上なく美味であった。炭酸が喉を刺激し、疲労が少しずつ和らいでいく。仲間と今日の山行を振り返る。撤退という結末ではあったが、誰も後悔の色を見せない。むしろ、冷静な判断ができたことへの安堵があった。

翌十二月十六日、快適な小屋で一夜を過ごし、下山を開始した。五合目でテントを撤収し、再び重いザックを背負う。食糧分は減ったが、それでも重い。淡々と黒戸尾根を下り、刀利天狗、刃渡り、笹の平を経て、竹宇駒ヶ岳神社へ。そして尾白川渓谷駐車場に戻った。

撤退という結末であったが、得るものは多かった。アルパインアイスクライミングは、氷の技術だけでなく、重荷での長時間行動、ルートファインディング、体調管理、そして撤退の判断まで、総合的な技術が要求される。我々は、山から多くを学んだのである。

下山後、むかわの湯で汗を流した。三日間の疲労が温泉に溶けていく。その後、バーミヤン須玉インター店で遅い昼食を取った。油淋鶏が胃に染み渡る。山での食事とは違う、文明の味である。テーブルを囲み、次の山行の話をする。

黄蓮谷右俣は、いつかまた訪れたい。その時こそ、万全の体調と冷静な判断で、あの美しい谷を登り切りたいと思う。山は逃げない。次の機会を待とう。


【記録】

  • 日程: 2024年12月14日(土)〜16日(月)
  • メンバー: 5名
  • 山域: 南アルプス・甲斐駒ヶ岳(山梨県)
  • ルート: 尾白川渓谷駐車場 → 黒戸尾根 → 五合目(テント泊)→ 六丈沢下降 → 黄蓮谷右俣 → 奥千丈の滝(撤退)→ 七丈小屋(小屋泊)→ 五合目(テント撤収)→ 尾白川渓谷駐車場
  • 行動時間:
    • 1日目: 6時間49分
    • 2日目: 11時間45分
    • 3日目: 5時間36分
  • 宿泊形態: テント泊(五合目)、小屋泊(七丈小屋)
  • 天候:
    • 1日目: 曇り時々晴れ
    • 2日目: 曇り時々晴れ
    • 3日目: 晴れ
  • 積雪: 少なめ
  • 氷結状態: 良好
  • 難易度: ルートグレード3級上、ピッチグレードⅣ-
  • スタート地点: 福島県 → 尾白川渓谷駐車場
  • その他特記事項: 奥千丈の滝登攀後、体調不良により撤退

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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