【山岳紀行】

【山岳紀行】濁川本流 ー 御釜の水が流れ着く沢へ

北村 智明

六月末、蔵王連峰の懐に刻まれた濁川本流を遡った。霧に煙る御田ノ神湿原おだのかみしつげんで高山植物を愛でた後、賽ノ磧さいのかわらから廃道を辿り入渓。御釜を源とする冷たい流れに膝まで浸かりながら、5人で不帰ノ滝かえらずのたきを目指した一日。濁川の水が、いかなる地形を刻んで流れ着くのかを、身をもって知る山行であった。


第一部:御田ノ神の朝、そして賽ノ磧へ

宮城を発ち、蔵王エコーラインを登り詰めたのは七時を過ぎた頃だった。梅雨前線が緩んだこの日、濁川本流に入る計画を立てたのはひと月ほど前のことである。メンバーは5人。うち3人がS、同じ名字が3人揃うというのは不思議な縁だが、沢ではそれぞれが頼りになる仲間だ。

まず向かったのは御田ノ神湿原である。蔵王の高所に広がるこの湿原は、標高約1,600メートルの台地に位置し、多様な高山植物の宝庫として知られている。霧が低く垂れ込め、木道は湿気を帯びていた。

オノエランが静かに咲いていた。白い花穂に距のある唇弁——蔵王の湿原にしか似合わない、清楚な姿である。

チングルマはすでに花期を終え、果穂が羽毛のように揺れていた。

ハクサンチドリの紫が、霧の白さの中で鮮やかに浮かんでいた。

トキソウの淡い一輪は、見落としそうなほど小さく地面に寄り添っていた。

コバイケイソウが木道の両側に群れをなし、白い穂を霧の中に伸ばしていた。足を止めるたびに、新しい花が目に入る。

ベニバナイチヤクソウ、コケモモ。岩の陰や低木の根元に、小さな命が幾重にも重なっていた。

オオシラビソの梢を見上げると、若い松ぼっくりが濃紫色に直立していた。霧の雫がその表面に光っている。

木道の外れに、一輪だけ咲き残るチングルマを見つけた。季節の端に取り残されたような、その白い花を見たとき、不意に時間の重さを感じた。

花をひとわたり眺めた後、車で移動し賽ノ磧へ向かった。賽ノ磧は蔵王連峰の中腹、標高約1,280メートルに位置するバス停のある広場で、観光客も訪れる場所だ。しかし今日の我々はここから廃道を辿り、濁川本流と振子沢の出合へと下る。廃道は踏み跡が薄れ、藪が被さる区間もあったが、地形を読みながら着実に高度を下げた。

御釜を源とする濁川は、蔵王の火山活動が形成した独特の沢である。五色岳の火口湖・御釜から流れ出す水は強酸性を帯び、かつては「不毛の沢」とも呼ばれた区間もある。しかし長い年月をかけて中和が進み、今では緑豊かな渓谷が発達している。その水が、どのような地形を刻んで麓へ向かうのか。入渓への期待は高まっていた。


第二部:冷たすぎる流れと不帰ノ滝

振子沢出合に着いたのは午前中のことであった。ここから濁川本流の遡行が始まる。入渓してすぐ、水の冷たさに息をのんだ。六月末とはいえ、蔵王の高所から流れ下る水は容赦がない。浸かる事を繰り返すうちに、足の感覚が徐々に失われていった。

五色沢出合を過ぎると、渓谷の様相が変わり始めた。両岸の岩盤が迫り、水流が岩を深く削った形跡が随所に見られる。玄武岩質の岩肌は滑らかでヌメりを帯び、ラバーが慎重に岩を捉えていく。水量はやや多めで、渡渉のたびに流れの強さを計算する必要があった。

やがて前衛の滝が現れた。直瀑ではないが、濡れた岩面が威圧感を漂わせる。ここでロープを出した。先頭のSがスタンスを確認しながら高度を上げ、後続が一人ずつ続く。水しぶきを浴びながらのビレイは、身体の芯まで冷気が染み込んでくる。それでも全員が問題なく通過し、先へ進んだ。

そして不帰ノ滝に到達した。

不帰ノ滝は濁川本流最大の滝であり、落差は100メートル弱。この滝を形成する溶岩は「不帰ノ滝溶岩類」と地質学的に命名され、約25〜35万年前の蔵王火山活動によって形成されたと推定されている。滝壺に立った瞬間、飛沫が全身を包み、轟音が谷全体に満ちた。白い水柱が垂直の岩壁を割るように落下する様は、圧倒的であった。直登は論外である。

TOM
TOM

左側の染み出しがブルーファングだよ

不帰ノ滝の突破は左岸大高巻きによる。ロープを固定し、急峻な草付き斜面をトラバースしながら高度を上げる。足元は不安定で、根をつかみながら這い上がる区間もあった。


第三部:ゴルジュを抜け、大黒天へ

高巻きを終えると、様相は一変した。不帰ノ滝の上流に展開するゴルジュは、両岸の岩壁が20メートルを超える高さで迫り合い、天を細く切り取るような形状をしていた。岩肌には柱状節理が発達し、整然とした石積みのような表情を見せている。

水流の中を進む。冷たさはもはや感覚として受け取れるものではなく、ただ脚が重くなる感覚だけが残っていた。それでも岩壁の間から見上げる空は、霧が晴れて青みを帯びていた。ゴルジュの中にいながら、山全体の奥行きを感じる瞬間だった。私は足が攣った。しかも一度ではない。股まで浸かる渡渉を繰り返してきた冷えが、筋肉の深部に蓄積されていたのだろう。

ゴルジュを抜けると、視界が開けた。残る工程は大黒天への登り返しである。火山性の堆積物が積み重なった白い斜面を、重い脚を引きずるようにして高度を上げた。軽石や火山礫が足元で崩れ、歩くほどに体力を消耗する。しかし標高が上がるにつれ、蔵王の稜線と緑の山肌が視野に広がり始めた。

大黒天登山口に到着したのは14時08分であった。行動時間5時間32分。大黒天の駐車場では観光客が行き交い、我々の濡れた装備とは別世界の喧騒があった。

水の冷たさは、今もまだ脚の記憶として残っている。御釜から流れ出したひとすじの水が、火山の大地を削り、滝となり、ゴルジュとなって、最後は静かに山裾へ消えていく。その全行程の、ほんの一部に立ち会えたことが、今はただ嬉しい。

蔵王は、何度登っても新しい貌を見せる山だ。六月末の濁川本流は、そのことをあらためて教えてくれた。


記録

  • 日程:2026年6月27日(土)日帰り
  • メンバー:5名
  • 山域:蔵王連峰(宮城県・山形県)
  • ルート:御田ノ神湿原(散策)→ 賽ノ磧 → 廃道 → 濁川本流・振子沢出合(入渓)→ 五色沢出合 → 前衛滝(ロープ使用)→ 不帰ノ滝(左岸大高巻き)→ ゴルジュ → 大黒天登山口
  • 行動時間:山行4時間20分 / 休憩1時間12分 / 合計5時間32分
  • 距離・標高:6.0km、登り594m、下り393m
  • 宿泊形態:日帰り
  • 天候:晴れ
  • 水量:やや多め
  • 難易度:遡行グレード2級(不帰ノ滝大高巻き含む)
  • スタート地点:宮城 → 蔵王エコーライン
  • 装備:ラバー沢靴、ザイル、ハーネス、カラビナ類、ヘルメット
  • 核心部:不帰ノ滝(落差20m超)左岸大高巻き、前衛滝ロープ使用
  • 注意点:水温が低く、長時間の浸水による筋痙攣に注意。増水時は遡行不可。賽ノ磧から出合いまでの廃道は踏み跡が薄い
  • 推奨時期:7月〜8月(水温が上がってから)
  • その他:御田ノ神湿原ではオノエラン・ハクサンチドリ・コバイケイソウなど多数の高山植物を観察。駒草平・大黒天周辺はエコーラインから観光客もアクセス可能

GPXルート図

Download file: nigorikawa-honryu-sawanobori.gpx

【GPSデータ利用上の注意】

本記事で公開しているGPSデータは、あくまで当日の記録です。以下の点にご注意ください。

  • 水量は降雨や雪解けにより大きく変動します。当日と同じ条件とは限りません
  • 滝や釜の状況、岩のヌメり具合は季節や天候により異なります
  • 高巻きルートや核心部の通過可否は、その時の状況により判断が必要です
  • GPSデータはあくまで参考情報です。ご自身の技術・経験・体力を考慮し、慎重に計画を立ててください
  • 不安がある場合は、経験者と同行することを強くお勧めします
  • 沢登りは自己責任の世界です。安全第一で楽しんでください


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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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