【山岳紀行】薬師岳 ー 赤木への想いを胸に
盛夏、北アルプスの薬師岳へ。赤木沢を目指して担ぎ上げた装備は、思わぬ体調不良により日の目を見ることはなかった。計画を変更し、霧に包まれた山頂を踏んだ一泊二日は、山が教える謙虚さと、高山の花々の慈しみに満ちていた。
第1部:折立から薬師平へ
福島を発ち、富山へ向かう。前夜、何度も装備を確認した。ザックには沢登りの装備一式が詰まっている。ハーネス、ロープ、ガチャ類。赤木沢を遡行するための道具たちだ。黒部源流に位置するこの沢は、北アルプス屈指の美渓として知られ、花崗岩のナメ床と透明な流れが沢屋を魅了してやまない。
前日、日航ジャンボ機墜落事故から四十年の追悼式典が御巣鷹の尾根で行われたというニュースを見た。五百二十名の命が失われたあの日から、四十年。山における安全とは何か。改めて考えさせられる。
折立の登山口に到着したのは午前九時であった。晴天。気温は既に高く、樹林帯の中は蒸し暑い。沢道具とテント泊装備が重くのしかかり、単調な登りが続く。汗が滝のように流れた。しかし、不快ではない。これから待つ山行への期待が、身体を軽くする。

その時、足元で何かが動いた。オコジョである。茶色い毛並みに黒い尻尾の先。こちらを見上げている。人を恐れる様子もなく、むしろ好奇心に満ちた眼差しだ。オコジョがここまで人懐っこいとは思わなかった。しばし見つめ合う。小さな命との邂逅は、山が与えてくれる贈り物である。
樹林帯を抜けると、視界が開けた。太郎平小屋が見えた瞬間、胸が高鳴る。稜線の向こうに広がる山々、青い空。この開放感こそが、北アルプスの真骨頂である。

太郎平から薬師平へ。木道が続く。高山植物が咲き乱れる湿原を抜けていく。白い花、黄色い花、紫の花。盛夏の薬師平は、花の楽園であった。

午後二時、薬師平のテント場に到着した。テントを張り、夕食の準備をする。明日は赤木沢だ。そう思いながら、私は眠りについた。
第2部:計画の変更
目覚めたのは午前三時であった。腹部に鈍い痛みがある。はじめは軽い違和感程度だったが、次第に強くなる。冷や汗が背中を伝った。
体調不良である。原因は分からない。食あたりか、疲労の蓄積か。いずれにせよ、このまま赤木沢へ向かうことはできない。深い谷に入る沢登りは、万全の体調でなければ危険だ。不安であった。しかし、ここで無理をすれば、取り返しのつかないことになる。
テントの中で二時間ほど横になった。腹痛は治まらないが、動けないほどではない。計画を変更しよう。赤木沢を諦め、薬師岳のピークを往復する。そう決断した。
赤木沢のために担ぎ上げた装備は、使われることなくザックに眠ったままだ。残念であった。しかし、それ以上に思い浮かんだのは、赤木沢に行きたがっていた岳友たちの顔である。彼らを差し置いて、私だけが先に行くことは許されない。これは抜け駆けの禁止という、山の仲間たちとの不文律なのだろうか。そんなことを考えながら、私は薬師岳へ向かった。

午前五時三十四分、薬師平を出発。薬師岳山荘を経由し、避難小屋跡へ。そこから山頂までは岩稜帯が続く。ガスが湧き上がってきた。視界が悪い。慎重に足を運ぶ。

午前七時二十一分、薬師岳山頂に到着した。標高二千九百二十六メートル。日本百名山にも名を連ねる名峰である。しかし、山頂は深い霧に包まれていた。一瞬だけ、ガスが切れそうな気配を見せたが、結局展望は得られなかった。

それでも良い。山は、いつも我々の期待に応えてくれるわけではない。霧の中の静寂も、山が見せる表情のひとつである。私はそこに立ち、深呼吸をした。
薬師岳山荘へ下り始めた時、登山道に雷鳥が現れた。夏羽の茶色い姿である。二、三メートルの距離で、悠然と歩いている。こちらを気にする様子もない。神々しさすら感じる。オコジョに続き、雷鳥。北アルプスの主たちが、次々と姿を見せてくれる。体調不良で計画を変更した山行ではあるが、山は別の形で私を労ってくれているのかもしれない。
第3部:花の湿原を下る
下山は太郎平から折立へのルートを選んだ。薬師平を過ぎ、薬師峠へ。太郎平小屋で小休止。そこから折立へ向かう道は、再び湿原と樹林帯の連続だ。

振り返れば、薬師岳の山容が見える。山頂は相変わらずガスに包まれたままだ。本来ならば、東面に広がる氷河期の名残を留めるカールを、山頂から眺めることができたはずである。深い陰影を刻む圏谷の全貌を、この眼で確かめたかった。しかし、山はタイミングを選ぶ。今回は、その姿を想像することで満足するしかない。
木道の両脇に広がる花々が、私を慰めてくれた。白い花弁が清楚な印象を与えるハクサンイチゲ、黄金色に輝くミヤマキンポウゲ、紫の可憐なハクサンフウロ。湿原の花々は、盛夏の陽光を浴びて輝いていた。

計画を変更せざるを得なかった山行である。赤木沢を遡ることはできなかった。山頂からカールの全貌を見ることも叶わなかった。しかし、この花の湿原を歩けたこと、オコジョや雷鳥との出会い、霧の山頂に立てたことは、私にとって十分な収穫であった。
五光岩ベンチで休憩し、樹林帯へ入る。長い下りが続く。膝が笑い始めた。疲労が蓄積している。しかし、一歩一歩を確実に進める。
午後一時一分、折立に到着した。
上市町のファミリー温泉ひらきの湯で汗を流す。山の疲れが湯に溶けていく。富山市内へ移動し、スシ食いねえで夕食をとった。富山の新鮮な寿司が、二日間の山行を労ってくれる。
山は、いつも我々の思い通りにはならない。体調不良による計画変更。それは残念なことではあるが、同時に山が教えてくれる教訓でもある。無理をしないこと。引き返す勇気を持つこと。安全を最優先すること。
赤木沢は、またいつか。今度は万全の体調で、そして仲間たちと共に。
薬師平の花々と、霧の薬師岳。盛夏の単独行を終えた二日間であった。
記録
- 日程: 2025年8月13日(水)〜14日(木)
- メンバー: 単独
- 山域: 北アルプス・立山連峰(富山県)
- ルート: 折立 → 太郎平 → 薬師平(テント泊)→ 薬師岳 → 太郎平 → 折立
- 行動時間:1日目:5時間00分(折立 → 薬師平)、2日目:7時間27分(薬師平 → 薬師岳往復 → 折立)
- 宿泊形態: テント泊(薬師平キャンプ場)
- 天候:1日目:晴れ、2日目:晴れのちガス(山頂)
- スタート地点: 福島 → 折立登山口
- その他特記事項: 当初は赤木沢遡行を予定していたが、体調不良により薬師岳ピストンに変更。オコジョ、雷鳥と遭遇。高山植物が見頃。下山後、ファミリー温泉ひらきの湯で入浴、スシ食いねえで食事。
参考
【追伸:プロの判断力と安全で、次のステップへ挑戦しませんか?】
薬師岳での山行記、最後までお読みいただきありがとうございます!
体調不良で計画を変更し、無事に下山できた経験は、私自身が「安全を最優先する」というガイドの鉄則を深く胸に刻む、大切な時間となりました。山は、時に「引き返す勇気」を教えてくれるものですね。
「憧れの北アルプスの岩稜帯に挑戦したいが、体力と装備に不安がある」
「難易度の高い縦走ルートにステップアップしたいが、単独は怖い」
「体調や天候の変化に合わせた、プロの判断を仰ぎたい」
私が単独行で学んだ「無理をしない安全な登山の技術」と、「山がくれる最高の瞬間(雷鳥、花、静寂)」を、そのままツアーとしてお客様にご提供するのが、わたしの個人ガイドツアーです。
お客様の体力と安全を最優先するため、原則として重いテント泊ではなく、山小屋泊(山荘泊)で快適にご案内いたします。
経験豊富な登山者の方の“岩稜帯への挑戦”も、初めて北アルプスを目指す方の”安心”も、私の確かな判断力と技術で全力でサポートします。
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