【山岳紀行】

【山岳紀行】真野川渓谷 ー 晩冬の氷壁

北村 智明

立春を過ぎ、暦の上では春の足音が聞こえ始める二月初旬。私は福島県の真野川渓谷へと車を走らせていた。目的はアイスクライミングである。本来であれば、厳冬期のこの時期、東北の山々は厚い雪と氷に閉ざされているはずである。しかし、近年の気候変動は著しい。暖冬という言葉が常態化し、低山の氷瀑は年を追うごとにその姿を消しつつある。「幻」となりつつある氷を求め、私たちは宮城を発った。不安と期待が入り混じる、晩冬の一日が始まろうとしていた。


第一部: 彷徨える氷結、丸森から真野へ

午前七時、宮城県丸森町。朝の空気は冷え込んでいるものの、肌を刺すような厳しさはない。ここで山仲間たちと合流する。S、F、Y、そして今回がアイスクライミング初挑戦となる新人S。精鋭たちが顔を揃えた。

我々の最初の目的地は、丸森町内の不動滝であった。阿武隈川の支流に懸かるこの滝は、条件が整えば見事な氷柱を形成することで知られる。しかし、滝の前に立った瞬間、我々は無言にならざるを得なかった。

水音が響いている。滝の中間部は水が勢いよく流れているのが確認できる。氷結はあまりに不十分である。アックスを打ち込めば、薄い氷は無惨に砕け散るだろう。それは登攀対象としての氷ではなく、春を待つ雪解けの景色に近かった。

「……厳しいな」

誰かが呟く。私も同感であった。リスクを冒して取り付く価値はない。冷静な判断が必要だ。我々は即座に踵を返し、次なる候補地、地蔵滝へと向かった。

だが、期待は再び裏切られることとなる。地蔵滝の氷柱は、まるで出来の悪いシャンデリアのように脆く垂れ下がっていた。下部は空洞化し、細い氷柱が頼りなく垂れ下がっている。アックスの一撃で崩壊することは目に見えていた。

「これでは、練習にもならない」

近年の温暖化の影響は、想像以上に深刻である。かつて当たり前のように凍っていた滝が、今では気象条件が奇跡的に重なった時にしか登れなくなっている。自然のサイクルが変わってしまったことを、まざまざと見せつけられた思いであった。

ここで我々は作戦を変更する。丸森に見切りをつけ、福島県の真野川渓谷へ転進することに決めた。真野川ならば、標高や地形の関係で、まだ望みがあるかもしれない。

私はここで一時、別行動をとることにした。後から合流予定のKをピックアップするためである。仲間たちを真野へ先行させ、私は一度車を走らせた。車窓を流れる福島の里山風景は、どこか穏やかすぎる。雪の少ない田畑を見やりながら、私は焦燥感を覚えていた。果たして、真野には「登れる氷」が残っているだろうか。

Kを乗せ、再び真野川渓谷へと急ぐ。ハンドルを握る手には、自然と力が入る。先行した仲間たちは、既に「セクシー網タイツ」と呼ばれるルートに取り付いているはずだ。携帯電話の電波が届かない谷底へ、私は祈るような気持ちで車を進めた。


第二部: 蒼き氷壁との対峙

真野川渓谷の駐車場に到着し、装備を整えて谷へと降り立つ。冷気が一段と増したように感じる。沢沿いの道を進むと、やがて前方に氷壁が見えてきた。

そこには、仲間たちの姿があった。S、F、Yの三人は、既にマルチピッチルート「セクシー網タイツ」の登攀を終え、安堵の表情を浮かべている。話を聞けば、一ピッチ目は氷の状態が悪く巻いたものの、二ピッチ目は快適に登れたという。しかし、三ピッチ目はやはり薄く、完登は断念したとのことだった。

「それでも、丸森よりはずっと良い」

Sの言葉に、私も胸を撫で下ろす。岩を叩くことなくアックスが決まる氷がある。それだけで十分だ。

私とK、そして新人Sを加えた六名は、次に「ビギナー」と呼ばれるエリアへ移動した。ここは比較的傾斜が緩く、トップロープでの練習に適している。垂直に近い氷壁が、冬の弱い陽光を浴びて青白く輝いていた。それは宝石のような硬質な美しさを湛えている。

私の順番が回ってきた。ハーネスにザイルを結び、深呼吸を一つ。アックスを握る感触を確かめ、氷壁に向き合う。

右腕を振り上げる。その瞬間、鋭い痛みが肩に走った。四十肩である。ここ数ヶ月、私の身体を蝕んでいる加齢の徴候だ。腕が思うように上がらない。しかし、ここで弱音を吐くわけにはいかない。痛みは確かに存在する。だが、それを理由に登攀を諦めるか否かは、また別の問題だ。

「よし」

短く気合を入れ、痛みを逃がす角度を探りながらアックスを振る。 ガツン。 乾いた音が谷に響く。良い音だ。氷は適度に硬く、ピックがしっかりと食い込んだ。左腕に重心を預け、右肩への負担を最小限に抑える。足元のアイゼンを蹴り込み、前爪が氷を捉える感触を確かめる。

一手、また一手。氷の形状を読み、凹凸を利用して身体を引き上げる。痛みと対話しながらの登攀は、ある種の内省的な時間でもあった。若かりし頃のように力任せにはいかない。しかし、経験がそれを補う。力の使い所、休ませ所を見極め、私はじりじりと高度を稼いだ。

「ナイス!」

下から仲間の声が掛かる。終了点に達し、ロワーダウンで降りていく時、私は確かな充実感を覚えていた。老いも、痛みも、この氷の世界では一つの要素に過ぎない。

続いてKが登る。安定したムーブで氷を攻略していく。そして、今回が初めてとなる新人Sの番だ。緊張した面持ちで氷壁に取り付く彼を、私たちは固唾を飲んで見守る。最初はおっかなびっくりだった彼のアックスが、徐々に力強く氷を捉え始めた。

「そうだ、足を信じて!」

先輩たちの檄が飛ぶ。彼は恐怖をねじ伏せ、終了点まで登りきった。地上に降り立った時の、あの安堵と興奮が入り混じった笑顔。それを見ることは、我々にとっても何よりの喜びである。


第三部: 氷壁(アイス)から氷菓(アイス)へ

午後三時を過ぎる頃、空の色が急変した。先ほどまでの陽光は消え、谷には猛烈な吹雪が舞い始めた。我々は慌てて道具を回収し、逃げるように谷を後にした。

下山後、我々は凍える身体を引きずりながらも、「まきばのジャージー」へと立ち寄った。吹雪は勢いを増す。

氷壁(アイス)と対峙した一日の締めくくりに、氷菓(アイス)を食す。

私が選んだのは、苺とブルーベリーのダブル。山上でのそれは、我々を拒絶するような無機質な蒼さであったが、手元のそれは鮮やかな色彩を放ち、甘美な香りを漂わせている。

暖房の効きが追いつかない店内、私は震えながら冷たい匙を口に運んだ。身体は冷え切っているというのに、この甘さが妙に心地よい。過酷な氷の感触を、この甘い氷で上書きしていく。これこそが我々の、いささか倒錯した流儀であった。

「丸森は駄目だったが、真野で救われたな」

仲間と今日の登攀を振り返る。温暖化の影響で氷結の状態は不安定さを増し、最後には冬の嵐に見舞われた。今日のような一日は、今後ますます貴重になるだろう。

二月の真野川。二つの「アイス」を存分に堪能した一日は、白い闇の中に静かに暮れていった。


記録

  • 日程: 2026年2月8日(土)
  • メンバー: 6名(私、S、F、Y、新人S、K)
  • スタート地点: 宮城県丸森町 → 福島県飯舘村
  • 山域: 真野川渓谷(福島県)
  • ルート: 丸森町(不動滝・地蔵滝確認) → 真野川渓谷(セクシー網タイツ、ビギナー)
  • 行動時間:
    • 7:00 丸森集合
    • 9:00 真野到着
    • 12:00 全員合流
    • 15:00 下山
  • 宿泊形態: 日帰り
  • 天候: 晴れ
  • 氷結状況:
    • 丸森町不動滝: 中間部薄く水流あり、登攀不可
    • 丸森町地蔵滝: 下部シャンデリア状、登攀不可
    • 真野川渓谷: 岩を叩かずに済む程度、近年にしてはそこそこ良好
  • 難易度: セクシー網タイツ(3ピッチマルチ、2ピッチ目のみ登攀)、ビギナー
    装備: アイスアックス、アイゼン(縦爪)、ハーネス、ヘルメット、ザイル、アイススクリュー、確保器具一式
  • 核心部: ビギナールートでの交代登攀
  • 注意点:温暖化の影響で氷結状況は年々不安定。事前の情報収集が重要。
  • 推奨時期: 1月下旬〜2月中旬
  • その他特記事項: 丸森低山アイスは今年は登攀困難。真野川渓谷は比較的良好な氷結状態。

立ち寄りスポット


GPXルート図

※GPXデータは提供しない

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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