【山岳紀行】栗子山塊、龍ヶ岳・仙王岳 ー 県境尾根を繋ぐ
二月初旬、栗子山塊は乳白色の沈黙に包まれていた。目指すは龍ヶ岳、そして仙王岳。 雪庇が波頭のようにせり出す細尾根と、凍てついた雪面が牙を剥く。視界を奪うガスの向こうに、私は自らが追い求めてきた「県境尾根」の最後の一片を幻視していた。 宮城を発ち、幾つもの峠を越えて辿り着いたこの静寂の嶺。それは単なる山行ではなく、己の技量と精神を研ぎ澄ます修行の場でもあった。風の音だけが支配する稜線で、私たちは一歩ずつ、空白だった地図を塗り替えていく。
第一部:二井宿峠から仙王岳へ
宮城を発ったのは午前6時過ぎであった。記録的な暖冬と報じられる今シーズンだが、県境の山々には依然として厳しい冬が残っている。国道13号—秋田市へと至る東北の大動脈—へと進路を変え、車は標高を上げていく。
二井宿峠に到着したのは午前7時41分。空は重く垂れ込め、山稜はすでにガスの中に沈んでいた。
メンバーはS、S、Yと私の四名。栗子山塊—山形・福島・宮城の三県にまたがる山域—の県境尾根を辿り、標高994メートルの龍ヶ岳と仙王岳を山スキーで繋ぐ計画である。私にとって、これは県境尾根完歩への一つのピースであった。山スキー1年目、栗子峠から鳩峰峠への縦走で散々に苦戦したあの記憶が蘇る。

シールを装着し、峠を出発する。いきなり雪庇の発達した尾根の急登が始まった。クラストした雪面にエッジが効きにくい。一歩踏み出すたびに、硬化した雪面が軋む音が響く。

細い尾根の両側には雪庇が張り出し、踏み抜けば滑落の危険がある。まるで刃の上を歩くような緊張感だ。足元を確認しながら、一歩ずつ高度を稼ぐ。曇天のため視界は限られ、周囲の山容は霧の中に沈んでいる。GPSで現在地を確認する。便利な時代になったものだが、どれほど技術が進歩しても、ホワイトアウトの恐怖は変わらない。
登りは思いのほか長かった。細尾根を辿る。風が強まり、仲間たちは黙々と前進している。

午前9時2分、仙王岳に到着した。標高912.5メートルと刻まれた標識が、雪に埋もれながらも辛うじて顔を出している。ガスが濃く、展望はまったく得られない。白い世界に包まれ、天地の境界が曖昧になる。15分の休憩を取り、次の目標である龍ヶ岳へと向かった。
第二部:龍ヶ岳へ、雪庇の細尾根を行く

仙王岳から龍ヶ岳への稜線は、さらに雪庇の発達が顕著であった。白い波頭のように張り出した雪庇が、細尾根の両側を覆っている。左右どちらかに踏み外せば、深い谷へ転落する。一歩一歩が緊張を強いられる。

風は強まり、クラストした雪面にスキーのエッジが捉えきれない。時折、アイスバーンに近い硬さの雪面に遭遇し、スピードコントロールが困難になる。止まらない、曲がらない。転倒を繰り返しながら、前進を続ける。

ガスは濃くなる一方であった。樹林帯の中では、枯れ木が亡霊のように浮かび上がり、すぐに霧の中へ消えていく。方向感覚が失われそうになる。

午前11時37分、龍ヶ岳に到達した。ここでも視界はほとんど効かない。白い世界に包まれ、天と地の境目が見えない。静寂が支配する山頂で、私たちは息を整えた。
11分の休憩の後、下降を開始する。視界が良ければ快適な滑降となるはずだった。しかし、現実は厳しかった。クラストした雪面はスピードが出る一方で、制御が効かない。凹凸が見えず、ギャップに突っ込んでは転倒を繰り返す。藪に引っかかり、予期せぬジャンプを強いられることもあった。

身体が宙を舞い、雪面に叩きつけられる。立ち上がり、またスキーを履き直す。その繰り返しだ。修行である。そう自分に言い聞かせながら、一本一本の転倒から立ち上がる。仲間たちも同様に苦戦している。互いに声を掛け合いながら、慎重に下っていった。
樹林帯を抜け、やがて鳩峰峠が近づく。疲労が身体に染み込んできた。しかし、まだ終わりではない。
第三部:鳩峰峠から国道399へ

午後1時7分、鳩峰峠に到着した。標高785メートルのこの峠は、国道399号が通る福島県と山形県の県境であり、龍ヶ岳への登山口としても知られている。ここから除雪終了点までが最後の区間である。そして、私にとっては因縁のルートでもあった。
山スキー1年目、栗子峠から鳩峰峠への縦走で散々に苦戦したあの記憶。国道の長く傾斜のない区間で、スキーがまったく滑らず、ひたすら歩き続けた苦い経験。今回も同じ光景が待っているのではないかという不安が、心のどこかにあった。
鳩峰峠からの下りは、想像を絶する「修行」の道となった。地図上では高度を下げる九十九折の快走路に見えるが、その実態はスキーを拒む迷宮であった。

雪面は単なるクラストに留まらず、吹き抜ける風が造り上げた不規則な波状の凹凸が延々と続いている。あたかも凍りついた荒波の上を行くかの如く、スキーは常に上下左右へと翻弄される。本来ならば一気に高度を稼げるはずの傾斜だが、このうねり狂ったギャップと、繰り返されるヘアピンカーブが容赦なく牙を剥く。
曲がろうとエッジを立てれば、不意に現れる雪の隆起に板を叩かれ、バランスを崩す。かといって直滑降でやり過ごそうとすれば、制御不能な振動が足裏から脳を揺さぶる。一ターンごとに、太腿の筋肉は熱を持ち、悲鳴を上げる。

さらに追い打ちをかけるのが、九十九折の後に現れる緩傾斜の区間だ。ここでスキーは完全に推進力を失う。重力という唯一の味方を奪われ、私たちはストックを突き、機械のように足を前後させるだけの存在となった。滑ることのないスキーを履き、雪のうねりを越えていくその姿は、端から見れば滑稽なほどに泥臭い歩みであったに違いない。
静寂の中、ただ荒い呼吸と、スキーが雪面を叩く乾いた音だけが響く。疲労は限界に近づいていたが、一歩踏み出すたびに、二井宿から繋いできた県境の線が確かなものになっていく。その実感が、重い足を前へと押し進める唯一の原動力であった。

やがて、除雪終了点が見えた。午後2時17分。ようやく、長い一日が終わろうとしていた。
車に戻り、装備を片付けながら、今回の山行を振り返る。栗子峠から二井宿峠までの県境尾根ルートを、これで完歩したことになる。残すは二井宿峠から二ツ森山までのルート。そこを繋げば、刈田岳までのコンプリートが叶う。一歩ずつ、目標に近づいている。

下山後、高畠町太陽館で温泉に浸かった。JR高畠駅の駅舎に併設された全国でも珍しい温泉施設である。冷え切った身体が、アルカリ性単純泉の温かい湯に包まれる。筋肉の疲労が、ゆっくりと解けていく。

栗子山塊らしい雪庇の細尾根と、クラストした雪面との格闘。視界不良の中で繋いだ県境尾根のピース。そして、国道の長い推進困難な区間。すべてが厳しかったが、充実感もまた確かにあった。厳しくも実り多い、二月の山スキー行であった。
【記録】
- 日程: 2026年2月5日(木)
- メンバー: 4名(私、S、S、Y)
- 山域: 栗子山塊(山形県・福島県)
- ルート: 二井宿峠 → 仙王岳 → 龍ヶ岳 → 鳩峰峠 → 国道399除雪終了点
- 行動時間: 山行5時間29分 / 休憩1時間07分 / 合計6時間36分
- 距離: 16.1km(登り695m / 下り942m)
- 天候: 曇り、ガス、山頂付近は視界不良
- 雪質: クラスト、アイスバーン
- 装備: 山スキー一式、シール、GPS、ヘルメット、ビーコン、プローブ、ショベル
- 核心部:
- 二井宿峠〜仙王岳:雪庇の急登尾根
- 仙王岳〜龍ヶ岳:雪庇の細尾根
- 龍ヶ岳〜鳩峰峠:視界不良の下降、クラスト雪面
- 鳩峰峠〜国道399:ギャップ処理、傾斜のない区間
- 注意点: 雪庇の踏み抜き、視界不良時はGPS必携、クラスト時のエッジコントロール
立ち寄りスポット
- 高畠町太陽館 – 下山後に利用した温泉施設
【GPSデータ利用上の注意】
本記事で公開しているGPSデータは、あくまで当日の記録です。以下の点にご注意ください。
- 積雪量、雪質、天候は日々変化します。当日と同じ条件とは限りません
- ルートの危険箇所や通過可否は、その時の状況により大きく異なります
- 尾根上の雪庇や、沢への滑り込みには十分な注意が必要です
- 視界不良時は、GPSだけに頼らず、地形判断と総合的なナビゲーション能力が求められます
- GPSデータはあくまで参考情報です。ご自身の技術・経験・体力を考慮し、慎重に計画を立ててください
- 不安がある場合は、経験者と同行するか、ガイドツアーのご利用をお勧めします
- 山スキーは自己責任の世界です。安全第一で楽しんでください

