【山岳紀行】

【山岳紀行】劔岳 チンネ左稜線 ー 池ノ谷氷河を越えて

北村 智明

七月、劔岳のチンネ左稜線へ。池ノ谷氷河を遡上し、北方稜線の岩峰に挑んだ三日間の山行は、圧倒的なスケールと花崗岩の確かな手応えに満ちていた。何年も計画しては天候や雪渓の状態に阻まれてきたルートを、ようやく登る時が来た。夏の劔を綴る、アルパインクライミング紀行。



第一部 − 池ノ谷へ

宮城を発ったのは前日の夜であった。T、Yとの三人パーティで、車は闇の中を西へと走る。劔岳のチンネ左稜線—1930年代から登攀の対象となってきた北方稜線の岩峰群を直上する、全13ピッチ、総合グレード4級下、核心部V級の本格的なアルパインルート—を目指す山行だ。ここ何年も、計画しては雨や雪渓の状態に阻まれてきた。今年こそはと願いながら、私は助手席で目を閉じた。

翌朝、登山口に着いた時には既に暑さが立ち込めていた。テント泊装備を背負い、午前三時過ぎに歩き始める。林道を進み、やがて砂防ダムを乗り越える。重い荷を担いでの乗っ越しは、想像以上に体力を削った。汗が滴り落ちる。白萩川の渡渉ポイントに着いた頃には、既に六時間以上が経過していた。膝上まで浸かる冷たい水が、火照った身体に心地よい。

渡渉を終え、さらに高度を上げていく。雷岩を過ぎ、池ノ谷出合へと向かう道は単調で、容赦ない日差しが照りつける。水を飲んでも飲んでも、渇きは癒えない。ようやく池ノ谷の雪渓が見えてきた時には、安堵の息が漏れた。

雪渓に乗り上げると、空気が一変する。ひんやりとした冷気が頬を撫でた。しかし、安堵もつかの間、雪渓の傾斜はそこそこあり、重い装備を背負っての登高は想像以上に消耗する。

池ノ谷は2018年に学術的に氷河と認定された、日本に現存する数少ない氷河の一つである。その白い斜面を、私たちは黙々と登っていった。

やがて二俣に到着し、さらに進んで小窓ノ王の下、標高約2,600メートル地点にベースキャンプを設営した。すでに午後五時を回っている。富山県警の訓練パーティも近くにテントを張っていた。明日はいよいよ、チンネである。


第二部 − 北方稜線の岩場へ

二日目、午前五時過ぎにベースを出発した。池ノ谷を詰め、チンネの取り付きを目指す。空は抜けるように青く、風は穏やかだ。これ以上ない天候である。

取り付きに着き、ハーネスを装着する。劔岳の花崗岩は固く、ホールドもしっかりしている。一ピッチ目を登り始めると、その確かな手応えに安心感を覚えた。リッジを交えながら高度を上げていく。圧倒的なスケール感が、眼下に広がる。八ツ峰の岩壁には、かなりの人数が入っているのが見える。劔岳一帯は、今日も多くの登山者を迎えているのだ。

核心部である「鼻」に差し掛かる。事前の情報では鼻そのものが難しいと聞いていたが、実際に登ってみると、鼻の上部のフェースが核心であった。慎重にムーブを組み立て、確実にプロテクションを取る。緊張が走るが、不安ではない。仲間の確保を信じ、私は岩壁を這い上がった。

鼻を越えると、再びⅢ級程度の岩場が主体となる。全体として、核心部以外の難易度は高くない。13ピッチという数字に対して、行動時間はそれほどかからなかった。実際には途中でピッチを切ったため15ピッチ程度となったが、それでも想定より早い。

むしろ、この稜線の魅力は、その圧倒的なロケーションにある。槍ヶ岳や穂高連峰が、遠くまで鮮明に見渡せた。青い空と白い岩稜、そして遥か彼方の峰々。劔岳が「岩と雪の殿堂」と称される所以を、身をもって知る。

クレオパトラニードルが眼前に迫る。その尖塔は、まるで天を突き刺すかのように聳えていた。美しい、と素直に思った。先行していた富山県警山岳警備隊のパーティから、「〇〇よし! 行け!」という隊員への指示が風に乗って届く。山での連帯感が、胸に温かく広がった。

全ピッチを終え、池ノ谷乗越を経てベースへ戻る。下降路である池ノ谷ガリーは、ガレ場が続き、足元が定まらない。登攀よりも、下りの方が恐怖を感じた。慎重に、一歩一歩を確かめながら、私達はベースへと帰還した。


第三部 − 下山、そして

三日目は下山である。池ノ谷の雪渓を下り、再び白萩川の渡渉、そして長い林道歩き。行きと同じ道を、今度は逆に辿る。

しかし、下山路は思いのほか過酷であった。再び容赦ない暑さが襲いかかる。水を飲んでも飲んでも、体調は改善しない。脱水の兆候を感じながらも、歩みを止めるわけにはいかない。Tが「もう少しだ」と声をかけてくれる。Yも黙々と足を進めている。私も歯を食いしばった。

林道に出た時には、全身が疲労に包まれていた。だが、不思議と心は軽い。ようやく、念願の池ノ谷アプローチのチンネ左稜線を登ることができたのだ。何年も待ち続けた山行が、こうして成就した。

駐車場に戻り、装備を下ろす。空は相変わらず青く、劔岳の岩峰が遠くに見えた。あの稜線を、私たちは確かに歩いたのである。

劔岳の花崗岩の感触、クレオパトラニードルの美しさ、槍・穂高の展望、そして仲間との確かな連帯感。すべてが記憶に刻まれた三日間であった。


記録

  • 日程: 2025年7月19日(土)~21日(月)
  • 山域:劔岳(富山県)
  • メンバー: 3名
  • ルート:池ノ谷アプローチ → チンネ左稜線(13ピッチ) → 池ノ谷ガリー下降 → 池ノ谷下山
  • 行動時間:
    • 1日目: 13時間59分(山行11時間20分、休憩2時間39分)
    • 2日目: 9時間29分(山行7時間14分、休憩2時間15分)
    • 3日目: 11時間11分(山行8時間20分、休憩2時間51分)
  • 宿泊形態:テント泊(池ノ谷ベース、標高約2,600m地点)
  • 天候:
    • 1日目: 晴れ
    • 2日目: 快晴
    • 3日目: 晴れ
  • 難易度:4級下(核心部V級)
  • スタート地点:宮城県内 → 前日夜移動 → 登山口
  • その他特記事項:
    • 池ノ谷は氷河認定(2018年)
    • 白萩川渡渉は膝上程度の水量
    • 暑さ対策と十分な水分が必須
    • 下山後はみのわ温泉へ

みのわ温泉・テニス村 | 一般財団法人 滑川市文化・スポーツ振興財団 [富山県滑川市]


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北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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