【山岳紀行】荒船山 市ノ萱川相沢川右俣 ー 五月雨の渓を遡る
五月の雨が降り続く荒船山へ。日本有数のテーブルマウンテンの懐に刻まれた相沢川右俣を、単独で遡行した一日。小粒ながら変化に富んだ滝と、霧に包まれた静寂の森。沢登りの記録として綴る、初夏の渓谷紀行。
第1部:霧雨の入渓
福島を発ったのは夜明け前だった。関越道を西へ向かい、上信越の山並みが朝靄の中に浮かび上がる頃、車は下仁田の町に差し掛かる。荒船山は群馬と長野の県境に横たわる、日本でも数えるほどしかないテーブルマウンテンである。標高1,423メートル。その平らな山容は、硬い溶岩層が周囲の柔らかい地層の浸食に耐え残ったという、地質学的な歴史を物語っている。また、深田久弥の百名山には選外ながらも、岩崎元郎氏の選定する新・日本百名山にも名を連ねる、個性豊かな山である。その山頂台地の縁に切り立つ艫岩は、高さ200メートルを超える断崖絶壁で知られている。
2009年、代表作『クレヨンしんちゃん』で知られる漫画家の臼井儀人氏がこの山で遭難した事故は、艫岩の峻険さを改めて世に知らしめた。十年余りの時が流れたが、山は変わらぬ姿で、我々を迎え続けている。
相沢登山口に車を停めたのは午前10時過ぎ。雨脚が弱まるのを待っていたため、出発が遅くなった。小雨が煙る中、沢装備を整える。単独行である。ロープ、ハーネス、スリング類。今日の目的は相沢川右俣の遡行と、冬季アイスクライミングルート「昇天の氷柱」の偵察だ。

中ノ宮の石祠に一礼し、樹林帯へ入る。霧が木々の間を流れ、視界は50メートルほどしかない。足元には落ち葉が厚く積もり、雨に濡れて滑りやすい。やがて沢音が近づいてきた。
入渓点は標高420メートル地点。水量は平水である。昨夜からの雨にもかかわらず、増水の気配はない。これなら問題ないだろう。私は沢靴に履き替え、渓に足を踏み入れた。

第2部:核心への登攀
遡行は快調だった。二、三メートルの小滝が次々と現れる。岩質は凝灰岩を主体とし、所々に苔が張り付いている。濡れた岩は慎重を要するが、ホールドは豊富で困難ではない。

標高650メートル地点で階段状二条滝が現れた。この辺りから滝が立て続けとなり、沢は次第に険しさを増す。

標高770メートルから870メートル付近にかけては、ところどころにナメ床も現れ、短い滝とナメが交互に顔を出す変化に富んだ遡行となる。

標高870メートル。水流を真っ直ぐに落とす10メートル直瀑に行く手を阻まれた。これも左から高巻く。続く標高920メートルの大岩帯は、かつて連瀑帯であったという記録があるものの、今は土砂に埋まり、平易なゴーロとなっている。濡れた岩を慎重に選びながら、三点確保を崩さずに高度を稼いでいく。この大岩を超えたあたりから、いよいよ核心部に差し掛かる。

標高1030メートルに12メートル直瀑。単独行のため、滝壺を避け左岸のルンゼを高巻きで処理。そして、この沢の核心と呼べる箇所、標高1070メートルの17メートル斜瀑の前に立った。

滝身は緩やかだが、高度感がある。単独行でロープを出すべきかどうか、一瞬迷う。しかし、冷静に判断し、フリーで登りきることに決めた。自分の技術を過信してはならない。安全を最優先としつつ、三点確保を徹底する。
岩は思ったより安定していたが、苔むした部分を避け、確実なホールドを選んで登る。冷や汗が背中を伝う。手を止めず、着実に高度を稼いでいった。
登り切ったところで、ようやく張り詰めていた緊張が緩むのを自覚した。
第3部:快適な詰めと下山
核心を越え、さらに5mハング滝などの小滝を越えていく。標高1210メートルには、水流を押し出すように立つ5メートル樋状滝。これもクリアすると、沢は次第に傾斜を緩めていく。

標高1340メートルを過ぎると、ついに水が枯れ、周囲の植生がブナ林に変わった。霧はますます深くなり、樹木が白い靄の中に浮かび上がる。その光景は水墨画を思わせた。沢筋を離れた後の植生は、ブナやミズナラが優占する広葉樹林へと変化し、生命力に満ちた静寂が支配していた。

涸沢となった沢を詰める。稜線への詰めは密な藪漕ぎもなく、傾斜も適度で非常に快適であった。急斜面を這い上がるように登ると、不意に視界が開けた。荒船山の最高峰、経塚山へと続く山頂台地である。

沢筋を登りきった先に広がるこの真っ平らな台地は、国内の山では類を見ないユニークな光景だ。まるで広大な庭園に迷い込んだかのような趣きがあり、沢中の緊張から一気に解放される場所である。

山頂の石碑付近には、クリンソウの群生地がある。この時期はまだ蕾の状態であり、花開く直前の生命力が、霧の中に広がる台地状の平原に息吹として感じられた。
しかし、期待していたテーブルマウンテンの眺望は、霧に阻まれて得られなかった。残念ではあるが、山とはそういうものである。

避難小屋で小休止を取り、下山にかかる。登山道を淡々と下る。疲労が足に重くのしかかってくるが、ペースは乱さない。

午後3時50分、相沢登山口に帰着した。行動時間5時間36分。遡行図のメモ取りに時間を費やしたため、通常よりも長い行動時間となった。
沢の濡れと、雨による冷えを解消すべく、車で十分ほどの距離にある「荒船の湯」に立ち寄った。露天風呂から見る緑の山並みは、今日遡行した渓を思い起こさせる。冷えた身体が芯から温まるにつれ、今日の山行が無事に終えられたことへの安堵が湧き上がってきた。
荒船の沢は、小粒で変化に富んだ渓であった。静かな雨の日にこそ相応しい静寂と、霧の森の美しさがあった。テーブルマウンテンの展望は、またの機会に譲ろう。山は逃げない。
記録
日程: 2022年5月21日(土)
メンバー: 単独
山域: 荒船山(群馬県・長野県)
ルート: 相沢登山口 → 市ノ萱川相沢川右俣遡行 → 荒船山 → 相沢登山口
行動時間: 5時間36分(休憩含む)
宿泊形態: 日帰り
天候: 小雨・ガス
水量: 平水
難易度: 遡行グレード 2級下 / 登攀グレード Ⅲ
その他特記事項: 17m斜瀑はロープ推奨、クリンソウ群生地(最盛期は5月下旬〜6月上旬)、視界不良により展望なし、冬季は昇天の氷柱や相澤奥壁等のアイスクライミングルートとして知られる


