【山岳紀行】

【山岳紀行】楢ノ木沢鴨沢 ー 予期せぬ三夜の彷徨

北村 智明

越後と出羽の境に連なる峻峰、飯豊連峰。我々は九月中旬、その深奥に抱かれた楢ノ木沢鴨沢を目指した。多くの遡行者が辿らぬ廃道を周回ルートに選んだ三日間の試みは、清冽な渓を辿る喜びと、山の厳粛なる教訓を突きつけることとなった。水音響く渓を愛し、道なき道に挑んだ者の記録である。


第一部:山の静かな夜明け

宮城を発ったのは九月十三日の夕刻であった。S、M、Oの三人と共に、私は新潟県の奥胎内ヒュッテを目指した。飯豊連峰の楢ノ木沢鴨沢。越後と出羽の境に連なり、峻厳たる威容を誇る飯豊の山懐に抱かれた、花崗岩のゴルジュが続く本格的な渓谷である。
多くの遡行者は二王子岳まで登り、登山道を下山する。しかし我々が選んだのは、廃道となった黒石山とナリバ峰を経由する周回ルートだった。古い記録は残っているものの、廃道の荒廃具合で所要時間は大きく変わる。我々は沢を詰めてから下山完了までの藪漕ぎを五時間と見積もった。この判断が、後にどれほど甘いものであったか、その時はまだ知る由もなかった。
夜、奥胎内ヒュッテの駐車場に泊まる。明日からの山行への期待と、わずかな不安。周囲は静まり返り、ただ虫の音だけが聞こえている。星空を見上げながら、私は静かに眠りについた。


翌朝、午前六時過ぎに出発する。まだ薄暗い林道を歩き、やがて胎内川に到着した。水量は穏やかで、渡渉に支障はない。対岸に渡り、アゲマイノカッチという奇妙な響きを持つ山の尾根に取り付いた。
急な尾根である。樹林帯の中、汗が滴り落ちる。九月とはいえ、まだ残暑が厳しい。しばらく登り続けたところで、私は異変を感じた。汗が滝のように出て、吐き気がこみ上げてくる。熱中症の兆候であった。仲間に告げ、木陰で休憩を取る。水を飲み、体を冷やす。焦りはあったが、ここで無理をすれば後の行程に支障をきたす。慎重を期して、十分な休憩を取った。


やがて体調が回復し、再び歩き始める。二時間ほど登り、沢筋を下り、午前八時四十分、ようやく楢ノ木沢が見えてきた。
尾根から谷底へ下り、最初の一歩を踏み入れた瞬間、渓相の美しさに息を呑んだ。透明な水が花崗岩の川床を滑るように流れ、深い緑に包まれた谷は静謐な空気に満ちている。水音が心地よく響く。大滝も大高巻きもない。登れる小滝が続き、ゴルジュ帯も長く、へつりを楽しみながら遡行できる理想的な沢であった。


午前十時、楢ノ木沢へ入渓する。いよいよ本格的な遡行の始まりである。


第二部:飯豊の深奥へ向かう

釣師二人で食料調達に勤しんだ。Oがテンカラで岩魚を狙い、私はルアーを投げる。しかし私の方は釣果に恵まれず、私のルアーには恵みがなかった。それでもOの釣り上げた岩魚が、後の焚火で我々を楽しませてくれることになる。


花崗岩は滑りやすい。ヌメりを帯びた岩を見極めながら、濡れた岩面を慎重に捉えていく。二メートル、三メートルほどの小滝が次々と現れる。直登できるものもあれば、左右の壁を這い上がるものもある。SとMも慎重にルートを選びながら、我々はゆっくりと高度を稼いでいった。


ゴルジュ帯に入る。両岸が迫り、水流が狭い空間を勢いよく流れている。へつりで通過できる箇所もあれば、腰まで浸かって進む箇所もある。冷たい水が心地よい。こうした変化に富んだ遡行こそが、沢登りの醍醐味である。


午後二時過ぎ、鴨沢出合に到達した。ここから先もゴルジュと小滝が続く。渓相は相変わらず美しく、飽きることのない遡行であった。時折Oが釣竿を振り、私もルアーを投げるが、やはり釣果はOに軍配が上がる。標高五九〇メートル付近、適度な平場を見つけて沢泊を決める。


焚火を囲み、Oが釣り上げた岩魚でなめろう寿司と刺身を作った。焚き火で炊いた米を酢飯とし、新鮮な岩魚のなめろうや刺身とする。こうした贅沢は、渓に立つ者のみに許された特権である。新鮮な岩魚の旨味が疲れた身体に染み渡る。四人は山の話に花を咲かせた。炎が揺れ、煙が立ち上る。こうした時間が、山行の大きな楽しみの一つである。ただし、藪蚊の猛攻には閉口した。耳元で絶え間なく羽音が響く。
夜中、雨音で目が覚めた。タープの下に敷いた銀マットに水溜まりができている。雨脚は強まる一方である。明るくなって沢を見ると、昨日までの清流が濁流に変わっていた。不安は確かにあった。しかし、ゴルジュ帯はほぼ通過している。水流に注意しながら遡行を続行することに決めた。


午前六時二十分、出発する。濁った水が轟音を立てて流れている。足元を慎重に確認しながら、一歩一歩前進する。沢登りとしては、まだまだ小滝もあり楽しく遡行できた。しかし次第に雨脚が強まり、やがて滝のような雨となった。雷鳴が谷間に響く。


正午頃、脱渓して稜線まで詰めた。ここまではタイムスケジュール通りである。標高一三二〇メートルの稜線に立ち、我々はわずかな達成感を味わった。しかし、これが試練の始まりに過ぎなかったことを、間もなく思い知ることになる。
ここからの藪漕ぎが全く進まなかった。幅のある稜線のため、どこが廃道かわからない。わかったとしても、ブッシュと笹藪が相当の高さまで茂り、一歩進むのに何倍もの労力を要する。木の枝が顔を叩き、足元は不安定である。我々は黙々と藪を掻き分けた。しかし、進んでいるのか進んでいないのか、感覚すら曖昧になってくる。


やがて日が傾き、暗闇が迫ってきた。午後六時半、標高一〇四〇メートル地点でビバークを決断する。これ以上の前進は危険である。二人用テントに四人で寝る。窮屈ではあったが、暖を取れたことは、ツェルトにはない安寧をもたらした。我々は黙って互いの体温を分け合った。外では雨が降り続いている。


第三部:山が遺した厳粛なる教訓

三日目の朝、雨は上がっていた。しかし、我々の前には相変わらず深い藪が広がっている。午前六時十九分、再び藪漕ぎを開始する。


前日に続き、幅のある稜線のため、廃道の痕跡を見失う。藪を掻き分け、藪に阻まれ、我々は牛歩のようなペースで前進した。一時間進んで、振り返ればわずか数百メートルしか進んでいない。そんな状況が続いた。
それでも頑張って進むと、やがて痩せ尾根になったり、廃道が明瞭になったりして、少しずつペースを上げることができた。木に括り付けられた古いテープが、かつてここが登山道であったことを物語っている。


時折、ヘリコプターが近くに接近してくるのが気になった。しかし、我々が直面していたのは、藪漕ぎよりも深刻な問題であった。食料と水が不足していたのだ。予定より一日長い行程となり、持参した食料では足りなくなっていた。非常用のアルファ米やカロリーメイトを分けて食べ、ハイドレーションを共用して何とか凌いだ。喉の渇きと空腹が、体力を確実に奪っていく。


午前八時十分、黒石山に到達した。ここから先は、廃道ながらも踏み跡が明瞭になってくる。それでも藪は深く、油断はできない。午後零時三十五分、ナリバ峰を通過する。ようやく下山の目処が立ってきた。


午後三時過ぎ、ついに奥胎内ヒュッテに到着した。疲労困憊であった。しかし、下山の安堵も束の間、予期せぬ事態が待ち受けていた。


ヒュッテは休館中のようだった。人の気配がない。車のフロントガラスに、一枚のプレートが貼られていることを発見する。「大規模崩落が発生して孤立、車両での下山は出来ない」。どうりでヒュッテがもぬけの殻なわけである。
緊急用電話で胎内市に連絡を取った。防災ヘリで救助に来てくれるという。後で知ったことだが、警察は既に車のナンバーから所有者を割り出し、私の家族に連絡を入れていた。関係者に多大な心配をかけてしまったのである。


荷物をまとめて指定の場所へ向かい、救助ヘリコプター搭乗となった。ローターの轟音が響き、機体がゆっくりと浮き上がる。窓から見下ろすと、奥胎内ヒュッテが小さくなっていく。我々の車も、そこに取り残されたままである。


この日は帰ることができず、我々はロイヤル胎内パークホテルに宿泊した。ふかふかで大の字にも寝られる広いベッド。前夜、二人用テントに四人で寝た我々にとって、これは至福の時間であった。シャワーを浴び、清潔なシーツに包まれる喜び。文明社会のありがたさを、改めて実感する。


翌朝の豪華ビュッフェも、少ない食糧を分け合って凌いだ記憶を一時忘れさせてくれた。温かい料理、豊富な種類、好きなだけ食べられる幸せ。四人は黙々と皿を重ねた。
中条駅から新発田駅まで電車で移動し、レンタカーで帰還する。車は一ヶ月ほど登山口に取り残されることとなった。
不可抗力もある。しかし、計画や行動、連絡の不備があったのも確かである。廃道区間の時間見積もりが甘く、食料や水の余裕も不足していた。関係者には多大な心配をかけてしまった。ただし、危険な状況には遭遇せず、怪我もなく下山できたのは、得意不得意が異なるメンバーのチームワークであったと思う。困難な状況でも、四人は互いを信頼し、支え合った。
飯豊の深い谷と、三夜にわたる予期せぬ彷徨。この経験こそが、私が再び山に向かうときの静かなる道標となり、唯一無二の記憶となるであろう。


記録

  • 日程: 2024年9月14日(土)〜16日(月)、帰宅は17日(火)
  • メンバー: 4名
  • 山域: 飯豊連峰(新潟県)
  • ルート: 奥胎内ヒュッテ → アゲマイノカッチ → 楢ノ木沢入渓 → 鴨沢出合 → 稜線(1,320m) → 黒石山 → ナリバ峰 → 胎内第一ダム → 奥胎内ヒュッテ
  • 行動時間:
    • 1日目: 10時間04分
    • 2日目: 12時間08分
    • 3日目: 9時間27分
  • 宿泊形態: ビバーク(590m地点)、ビバーク(1,040m地点)
  • 天候:
    • 1日目: 曇り時々晴れ
    • 2日目: 曇りのち雨
    • 3日目: 曇り時々晴れ
  • 水量: 平水(2日目朝から増水)
  • 難易度: 遡行グレード3級、登攀グレードⅢ級
  • スタート地点: 宮城県内 → 奥胎内ヒュッテ
  • その他特記事項: 2日目夜の降雨により増水。廃道区間の藪漕ぎに予想以上の時間を要し緊急ビバーク(見積5時間→実際15時間)。下山後、土砂崩れによる孤立のためヘリで救助。車は約1ヶ月間登山口に残置。警察から家族に連絡が入る。

ロイヤル胎内パークホテル


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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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