【山岳紀行】

【山岳紀行】日光白根山・東稜 ー 初冬の岩稜を辿る

北村 智明

十一月末、日光白根山の東稜へ向かった。関東以北最高峰の険しい岩稜を、九名の仲間と共に辿る一日の山行は、想定外の四十肩の痛みと向き合いながら、初冬の静謐な山域を満喫するものとなった。個人山行として、また岩稜登攀の記録として綴る、晩秋から初冬への季節の狭間を行く山岳紀行。


第一部:序章 ー 凍てつく池を越えて

福島から車を走らせたのは、まだ夜明け前であった。東北道を南下し、日光宇都宮道路へと乗り継ぐ。いろは坂を登り、中禅寺湖畔を過ぎると、やがて金精峠へと向かう急勾配の道が始まる。標高を上げるにつれ、気温は急速に下がっていく。車外温度計はマイナス五度を示していた。

金精峠を越えると、そこは既に群馬県である。峠からの下りは慎重を要する。路面には薄く雪が積もり、凍結の兆しがある。前夜の冷え込みは厳しかったのだろう。菅沼の湖面も、遠目に白く見えた。

菅沼登山口の駐車場に到着したのは午前八時過ぎだった。既に数台の車が停まっている。我々は九名という大所帯である。装備を確認し、ザックを背負う。冷たい空気が肺に染み込む。吐く息が白く凍りつきそうだ。

この山行を前に、私は不安を抱えていた。四十肩である。日常生活にまで支障をきたすほどの痛みが、数カ月続いている。肘を上げると激痛が走る。シャツを着るのも一苦労だ。しかし、ここで引き返すという選択肢はなかった。仲間との約束もある。無理をせずに、誤魔化しながら登ればいい。そう自分に言い聞かせた。テーピングで固定する。できる限りの対処はした。

日光白根山は、標高2,578メートル、深田久弥が日本百名山に選んだ関東以北最高峰である。日光火山群の主峰として、安山岩の溶岩円頂丘がドーム状に聳え立つ。冬に雪を纏い白く輝くことから「白根」の名を持つこの山は、東に前白根山、周囲に座禅山や白根隠山を従え、その懐に弥陀ヶ池と五色沼を抱く。

準備を終え、菅沼登山口から入山する。白い息が宙に溶ける。

針葉樹の森を抜け、やがて広がる弥陀ヶ池は完全に凍結していた。まだ十一月だというのに、氷は足を乗せても軋む程度で、十分な厚みを持っている。白磁のような湖面が朝日を反射し、眩しいほどだ。慎重に氷上を横切る。時折、氷の奥底から不気味な音が響き、思わず足を止めた。ピシリ、ピシリと、まるで生き物のように氷が呻く。

「大丈夫か?」と前を行く仲間が振り返る。「問題ない」と答えたが、心臓は早鐘を打っていた。氷の厚さは十分だと理解していても、足元が透明な氷というのは落ち着かない。池の底が透けて見える箇所もある。深さ数メートルはあるだろうか。

池を渡り切ると、枯れ草の斜面が続く。雪と土が混じり合った道を、仲間たちは談笑しながら進んでいく。時折笑い声が響く。この緊張と弛緩のバランスが、山行を楽しいものにする。私も笑いながら、しかし内心では肩の痛みと対話していた。まだ大丈夫だ。いける。

仲間の一部は一般ルートを辿るという。我々東稜組と別行動だ。それぞれの経験と目的に応じたルート選択である。「じゃあ山頂で」と声をかけ、五色沼で我々は分かれた。

第二部:東稜 ー 岩と雪の登攀

午前十時を過ぎた頃、東稜の取り付きに到達した。ここで装備を整える。ハーネスを締め、ヘルメットを被る。カラビナの音が冷たい空気に響く。私は肩の状態を再び確認した。動かせる範囲で動かす。それ以上は無理をしない。肘を真上に上げようとすると、鋭い痛みが走る。横方向なら何とかなる。体を捻って誤魔化せば、登れるはずだ。

東稜は、日光白根山の東側から山頂へ直上するバリエーションルートである。核心というほど難しい箇所はなく、グレードは一級程度だ。しかし、岩と雪が混在するこの時期は、慎重さを要する。特に、安山岩は粗い岩質で、ホールドは豊富だが、雪が凍りつくと途端に難易度が上がる。

取り付きからは、ほとんど歩きで進むことができた。草付きと灌木、雪が混じり合った斜面を、アイゼンの前爪を効かせながら登る。私は肘を上げないように、体を捻りながら岩を掴む。左手でホールドを掴み、右手は添える程度。足に体重を乗せ、できるだけ腕の力を使わないように心がける。痛みはあるが、なんとか誤魔化せる範囲だ。

風が吹いた。冷たい風が、薄氷のように頬を切る。標高が上がるにつれ、風は強さを増していく。しかし、この程度ならまだ許容範囲だ。むしろ、風が運んでくる冷気が、集中力を研ぎ澄ませてくれる。

終わり間近になって、ようやく一ピッチだけザイルを出した。ここだけは慎重を期す必要がある。岩が巨人の歯のように鋭く聳え立ち、雪と氷で覆われている。ロープが伸びていく。前を行く仲間がリードし、私はセカンドで登る。ロープの張力を感じながら、仲間の動きを見守る。

私の番が来た。「登ります」と声をかけ、岩に取り付く。安山岩の粗い表面が、確かな摩擦を与えてくれる。三点支持を意識し、足元に体重を乗せる。右足のアイゼンの前爪が、岩の窪みに噛み込む。左足も同様に。体を引き上げる。肩に鈍い痛みが走るが、我慢できる範囲だ。

次のホールドを探す。体を左に捻り、横方向に手を伸ばす。この動作なら肩への負担は少ない。指先が岩の縁を捉えた。確実なホールドだ。体重をかけ、もう一段高度を稼ぐ。岩を慎重に捉えていく。滑らないように、丁寧に、確実に。

風が唸る。ロープが風に揺れる。私は呼吸を整え、次の一手を考える。焦る必要はない。自分のペースで、確実に登ればいい。もう一度、肩の状態を確認する。

ピッチを登り切り、稜線に乗ると、視界が開けた。遠く男体山が白く輝いている。中禅寺湖も見える。眼下には五色沼が、凍結した水面を陽光に晒していた。風は強いが、視界は抜群だ。

稜線の岩は、雪と氷に覆われている。風は穏やかだ。体が揺れる。バランスを崩さないよう、低い姿勢を保つ。しかし油断はできない。一歩一歩、確実に足場を確認しながら進む。時折、前方で小さな岩が転がる音がする。仲間が慎重にルートを見極めながら登っている様子が伝わってくる。

正午を過ぎた頃、核心部を抜けた。ここから先は比較的穏やかな岩稜が続く。私は安堵した。肩の痛みは相変わらずだが、なんとか乗り切れそうだ。ザックから行動食を取り出し、口に放り込む。疲れた体に染み渡る。技術的には一級程度のこのルートも、身体の制約があると、また違った困難を伴う。山は常に謙虚さを求める。

第三部:山頂、そして薄暮の下山

午後二時半頃、奥白根山の山頂に立った。標高2,578メートル。関東以北の最高峰である。

山頂からの展望は圧巻であった。晴天に恵まれ、遠く富士山のシルエットが薄く浮かんでいる。白い峰々、谷川岳の鋭鋒、そして尾瀬の山並み。360度の大パノラマが広がる。風は冷たいが、陽光が心地よい。一般ルート組の仲間も既に到着していた。「お疲れ」と声をかけ合う。

眼下に広がる五色沼は、白い氷の表面が陽光を反射し、まるで磨き上げられた鏡のようだ。弥陀ヶ池も同様に凍結し、静謐な風景を作り出している。我々が今朝歩いた氷上が、遥か下に見える。

山頂での滞在は短い。風が強く、体が冷える。簡単に写真を撮り、すぐに下山にかかる。

下山は北尾根を辿る。こちらは一般登山道で、雪と岩が混じり合った道が続く。東稜とは対照的に、整備された登山道を黙々と下る。疲労が蓄積してきた。肩の痛みも増している。足元がおぼつかず、アイゼンを突っ掛けることが多くなった。ガツン、ガツンと、アイゼンが岩に当たる音が耳障りだ。慎重さを欠いた証拠だ。自分に言い聞かせる。集中しろと。

日没が迫っていた。西の空が茜色に染まり、やがて藍色に変わっていく。弥陀ヶ池を過ぎた頃には、既に薄暗くなっていた。ヘッドランプを点ける。ぎりぎりのタイミングだった。暗闇の中、光の輪が足元を照らす。木々の影が揺れる。針葉樹の枝が風に揺れ、不気味な影を作る。

午後五時過ぎ、菅沼登山口に戻った。林道の雪は午後の陽光で少し溶けている。長い影が森に伸びる。ヘッドランプを消し、ザックを下ろす。肩から重みが解放される瞬間、思わずため息が漏れた。

下山後、我々は日光和の代温泉「やしおの湯」へ向かった。車で二十分ほどの距離だ。温泉施設に入ると、暖かい空気が出迎えてくれた。

湯船に浸かった瞬間、全身の緊張が解けていくのを感じた。湯は少しぬるめで、長く浸かるのに適している。肩の痛みも、温泉の湯で少し和らいだ。湯の柔らかな感触が、疲れた筋肉を優しく包み込む。

風呂から上がり、食事処へと向かった。我々はそれぞれ定食を注文する。疲れた体に染み渡る。今日の山行を振り返りながら、仲間たちと談笑する。東稜の核心部の話、凍った池の話、ヘッドランプ下山の話。

食事を終え、ようやく人心地ついた。時計を見ると、既に午後六時を回っている。福島への帰路は長い。東北道を北上し、帰宅したのは午後十一時頃となった。夜の高速道路は交通量も少なく、スムーズに流れていた。車窓から見える街の灯りが、日常へと戻る実感を与えてくれる。

四十肩という予想外の障害を抱えての山行だったが、無理をせず、誤魔化しながら、なんとか乗り切ることができた。核心部のグレードが一級程度であったことも幸いした。もし、これがより困難なルートであったなら、私は撤退を選んだかもしれない。慎重を期して、自分の限界を見極める。その判断こそが、山では何よりも重要だ。

日光白根山の東稜。初冬の岩稜を九名で辿った一日は、身体の痛みと向き合いながらも、山の厳しさと美しさを改めて教えてくれた山行であった。


日光和の代温泉 やしおの湯 – 【公式】日光市温泉保養センター「やしおの湯」



記録

  • 日程: 2025年11月30日(日)
  • メンバー: 9名(東稜組、一般ルート組に分かれて別行動)
  • 山域: 日光白根山(栃木県・群馬県)
  • ルート: 菅沼登山口 → 弥陀ヶ池 → 東稜取り付き → 東稜 → 奥白根山 → 北尾根 → 弥陀ヶ池 → 菅沼登山口
  • 行動時間: 7時間11分
  • 休憩: 1時間8分
  • 合計: 8時間19分
  • 距離: 11.2km
  • 登り: 1,052m
  • 下り: 1,053m
  • 天候: 晴れ
  • 難易度: 1級程度
  • スタート地点: 福島 → 菅沼登山口
  • 下山後: 日光和の代温泉「やしおの湯」
  • その他特記事項: 弥陀ヶ池・五色沼とも完全凍結。東稜はほぼ歩きで終盤1ピッチのみザイル使用。

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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