【山岳紀行】笹穴沢 ― フジロックの残響と、天を突く大ナメ滝
苗場の空を揺らす重低音を背に、我々は別のステージへと向かった。谷川連峰・笹穴沢。そこは、水と岩が轟音を奏でる天然のコロシアムだ。寝坊という手痛いミスで始まった序盤、足元を狙うヒルという名の不快なノイズ。しかし、120mの大ナメ滝という「メインステージ」に立ったとき、アドレナリンは最高潮に達する。これは、15時間44分におよぶノンストップの即興演奏。静寂と絶叫が交差する、真夏の沢登りライブ・ブートレグである。
第一部:遠征と試練
前夜、我々五人は登山口近くにテントを張った。福島から谷川連峰へ。およそ二百キロメートルの道程を経て、ようやくたどり着いた目的地である。遠征の高揚感は確かにあった。しかし、翌朝の出発時刻を厳守しなければならない。下山地点に車を回送する必要があるからだ。
ところが、翌朝、その回送を担当するメンバーが予定していた時刻に起きることができなかった。寝坊である。一時間ほどの遅れが生じた。慎重を期すべき山行の初めから、すでに遅れている。焦燥感が胸を締め付ける。しかし冷静に、しかし着実に進むしかない。
ちょうどこの頃、新潟県湯沢町の苗場スキー場ではフジロックフェスティバル’24が開催されていた。七月二十六日から二十八日までの三日間、国内外から多くの音楽ファンが集う祭典である。最終日には、元Oasisのノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズがヘッドライナーを務めるという。我々が静かに山の深部へと向かう間も、麓では別の熱気が渦巻いていた。人が人へ向かう世界と、人が山へ向かう世界。同じ時間、同じ地域で、異なる情熱が交差している。

川古温泉を発ち、赤谷川橋を経て赤谷林道を進む。午前八時十四分、赤谷林道終点に到着した。ここから笹穴沢本流へと入る。谷川連峰の西端に位置する平標山は、標高1,984メートル。「花の百名山」にも選ばれ、広い稜線に高山植物の群落が点在する穏やかな山容である。チシマザサが風に揺れ、夏の陽光を浴びる稜線は、訪れる者を優しく迎えてくれる。
しかし、その南面を深く刻む笹穴沢は、決して穏やかではない。連続する大滝、ヌメる岩壁、長大な登攀。名渓と呼ばれるゆえんは、その峻厳さにある。穏やかな山容の裏に隠された、厳しい谷の姿。我々はこれから、その深部へと足を踏み入れる。

入渓の準備をしていると、足元に異変を感じた。見ると、ヒルである。気づいた時には、すでに膝下に何匹もが吸い付いていた。血が滲む。不快感は否めない。しかし、これもまた赤谷川水系の洗礼である。五人がかりで、一匹ずつ丁寧に駆除していく。この作業に三十分近くを要した。本流に足を踏み入れる前から、すでに試練が始まっている。
第二部:水と岩の饗宴

序盤はゴーロと巨岩帯が続く。ひたすら岩を越え、巻き、這い上がる。単調とも言える遡行である。しかし、この単調さの中にも、谷特有のリズムがある。岩を掴む手の感触、水音が響く静寂、足裏に伝わる岩の冷たさ。五感が研ぎ澄まされていく。

やがて視界が開けた。くろがね岩峰が見えてくる頃には、渓相も明るくなる。岩壁が後退し、光が谷底に届くようになった。ここからが笹穴沢の真骨頂である。

ウォータースライダー、ナメ。岩が滑らかに磨かれ、水が薄く流れる。楽しめる区間が出てきた。七月下旬の水は、予想に反して冷たくない。手を浸すと、ほどよい冷気が心地よい。ハクサンコザクラが白く咲いている。岩の隙間に根を張り、夏の盛りを謳歌している。夏の谷は、緑と水と花に満ちていた。
しかし、それは束の間の安らぎであった。二段三十メートル滝が現れた。水線を見上げる。岩は濡れ、ヌメりを帯びている。この滝が、今回の遡行で最も手こずった箇所である。Sと目を合わせた。言葉はない。しかし、互いの考えは分かっている。慎重に行こう、と。互いの安全を確認し合う。

まず右壁から取り付く。Tが先行する。ヌメりを帯びた岩壁を、慎重に登る。二段三十メートル滝を右壁から処理し、上部に抜けた。

しかし、そこから先が本当の試練であった。十メートルの滝を右のルンゼから越え、さらに階段状の四メートル。水線左から十メートルの滝。足元の不確かさと格闘しながら、慎重にホールドを探る。指先が岩の凹凸を確かめる。ここか、いや違う。もう少し上だ。ヌメりが靴底を滑らせようとする。一歩一歩、確実に。登攀は集中力との戦いであった。

「大丈夫か」とTが声をかけてくる。「問題ない」と答える。短い言葉の中に、互いへの信頼がある。焦りは禁物である。自分のペースで、確実に登る。それが安全への唯一の道だ。

滝はまだ終わらない。十メートル、七メートル、二十メートルを左壁から、四メートル、五十メートルを右壁から。大滝が次から次へと現れる。もはや、ただ遡行するだけではない。クライミングの技術が求められる領域に入った。

そして圧巻は、大ナメ滝百二十メートルである。見上げると、白い水の壁が天に向かって聳えている。その姿は、まるで巨大な白布が天から降り注いでいるかのようだ。下部は水線右から取り付く。水しぶきが顔を打つ。途中で左へトラバースする。岩は垂直に近く、ホールドは限られている。ここを越えるのに、どれほどの体力を消耗したか。しかし、引き返す選択肢はなかった。我々は登り続けた。一歩ずつ、確実に高度を上げていく。そうするしかない。

第三部:光と闇と

大滝の連続を越えた後も、二十メートル、七メートル、六メートル、四メートル、そして十メートルの滝を処理する。もはや数えることに意味はない。ただ、一つずつ確実に越えていくのみである。

詰めは平標山南の稜線に上がった。森林限界を越えた瞬間、世界が一変した。チシマザサが風に揺れる開けた世界。空が広い。風が吹き抜ける。長い登攀の後に訪れる開放感は、何度味わっても格別である。谷底の閉塞感から解放され、稜線の自由な空気を胸いっぱいに吸い込む。

しかし、安堵する暇はなかった。時刻はすでに午後八時を過ぎていた。空は薄暗くなり始めている。登山道に復帰する頃には、ヘッドランプが必要になった。平標山乃家を経て平元新道登山口へ。疲労が身体に重くのしかかる。それでも、足を止めるわけにはいかない。

ここで慎重を期すべきか、それとも多少のリスクを取ってでも時間を優先すべきか。判断の分かれ目である。しかし、我々の答えは決まっていた。安全を最優先する。急げば、転倒や道迷いのリスクが高まる。ヘッドランプの明かりを頼りに、一歩ずつ確実に下る。焦りは禁物だ。
岩魚沢林道ゲート、平標登山口バス停を経て、午後十時十分に平標登山口駐車場へ到着した。十五時間四十四分の行動時間。そのうち休憩は四十九分。ほぼ休みなく動き続けた一日であった。

駐車場には、フジロックフェスティバルの参加者だろうか、夜中にもかかわらず多くの人がいた。車のドアを開け閉めする音、笑い声、遠くから聞こえる音楽の残響。明日は最終日である。元Oasisのノエル・ギャラガーが、数万人の観客の前でステージに立つ。音楽の祭典と山の遡行。同じ時、同じ地域で、それぞれが異なる熱を追い求めている。彼らの熱狂と、我々の静かな闘志。どちらが正しいというわけではない。ただ、人はそれぞれの方法で、生きることの充実を求めているのだ。
我々は同じ場所にテントを張り、二度目の野営に入った。谷川連峰らしい連続する大滝と、ヌメりを帯びた岩の難しさ。盛夏の沢旅を完遂した一日であった。
【記録】
- 日程: 2024年7月27日(土) [日帰り]
- メンバー: 5名
- 山域: 谷川連峰・利根川水系赤谷川(群馬県・新潟県)
- ルート: 平標登山口駐車場(テント泊) → 川古温泉 → 赤谷川橋 → 赤谷林道終点 → 笹穴沢遡行 → 平標山南稜線 → 平標山乃家 → 平元新道登山口 → 岩魚沢林道ゲート → 平標登山口バス停 → 平標登山口駐車場(テント泊)
- 行動時間: 15時間44分(休憩49分含む)
- 距離: 22.5km
- 累積標高: 登り1,914m / 下り1,587m
- 宿泊形態: テント泊(前夜・当夜)
- 天候: 晴れのち薄曇り
- 水量: 平水
- 難易度: 遡行グレード3級 / 登攀グレードⅢ上
- その他: 沢登り名渓62選収録 / 前夜川古温泉-笹穴沢出合間でヒル被害
- 核心部の詳細
- 二段30m滝: 右壁から処理(ヌメりに注意、最も手こずった箇所)
- その後の連続滝: 右のルンゼから→4m階段状→10m水線左から→10m→7m→20m左壁から→4m→50m右壁から
- 大滑滝120m: 下部は水線右、途中で左から
- 最終滝群: 20m→7m→6m→4m→10m右岸巻き
【GPSデータ利用上の注意】
本記事で公開しているGPSデータは、あくまで当日の記録です。以下の点にご注意ください。
- 水量は降雨や雪解けにより大きく変動します。当日と同じ条件とは限りません
- 滝や釜の状況、岩のヌメり具合は季節や天候により異なります
- 高巻きルートや核心部の通過可否は、その時の状況により判断が必要です
- GPSデータはあくまで参考情報です。ご自身の技術・経験・体力を考慮し、慎重に計画を立ててください
- 不安がある場合は、経験者と同行することを強くお勧めします
- 沢登りは自己責任の世界です。安全第一で楽しんでください

