【山岳紀行】

【山岳紀行】幽ノ沢V字状岩壁右ルート ー 六月の花崗岩を登る

北村 智明

梅雨の晴れ間を縫って、谷川の岩壁へ。幽ノ沢V字状岩壁右ルートに挑んだ六名の山行は、雪渓崩壊の危機と飛来する落石、そして十七時間に及ぶ長い一日を刻んだ。アルパインクライミングの醍醐味と、山が容赦なく突きつける現実とを、あの無機質な花崗岩の巨壁は静かに教えてくれた。


第一部:福島を発ち、幽ノ沢へ

梅雨前線が停滞する六月の末、わずかな晴れ間を見計らって車を走らせた。福島を深夜に発ち、東北道から関越自動車道を水上へ。谷川岳インフォメーションセンターの駐車場に車を停めたのは、夜半を過ぎた頃であった。

毎年この季節に企画している谷川のアルパインクライミング。今年の目標は幽ノ沢V字状岩壁右ルートとした。谷川岳東面に刻まれたこの沢は、標高差約四百メートルにわたる花崗岩の急峻な壁を擁し、東壁・一ノ倉沢とならぶ本格的な登攀対象である。右ルートは一九五六年に初登され、全八ピッチ・ルートグレード3級。私自身は単独で前回足を踏み入れているが、T、S、F、W、Nの五名にとっては初めての壁だ。

午前三時三十四分、ヘッドランプを灯して歩き始めた。登山届を提出し、一ノ倉沢を越えて幽ノ沢へと向かう。六月の深夜、マチガ沢の水音だけが静寂を破る。空には星が出ており、天気は期待できそうだった。

一ノ倉沢出合を過ぎ、幽ノ沢出合に到着したのは五時二十五分。沢床は予想通り雪渓に埋まっていた。

締まった雪面を慎重に進め、雪渓から沢床へ降りようとした瞬間、眼の前の雪が音もなく崩れ落ちた。ほんの一歩、踏み出すのが早ければ、その雪と共に消えていたかもしれない。不安は確かにあった。

しかし、ここで引き返す理由にはならない。全員の無事を確認し、静かに前進した。


第二部:カールボーデンから八ピッチの登攀へ

幽ノ沢のカールボーデン—雪の侵食が削り出した広大な岩盤の底—は、朝の光の中でも相変わらず無機質な巨城の様相を呈していた。周囲を垂直な壁に囲まれたこの空間に立つと、人間の小ささを改めて思い知らされる。

カールボーデンから右ルートの取り付きへのルートファインディングはSに委ねた。しかし尾根の乗り越しで少し迷い、要のテラス付近への到達に予定より時間を要した。山は常に謙虚さを求める。経験の積み重ねがあっても、初めて踏む地形は別物だ。

取り付きに達したのは午前八時。六月の陽光はすでに強く、花崗岩の壁面が熱を帯びはじめていた。

一・二ピッチはⅢ級、六十メートルのトラバースで要のテラスへ。ソールが濡れた岩をしっかりと捉え、横断の足運びは安定していた。要のテラス付近で左ルートを先行していたパーティが動いた直後、上方から轟音が響いた。落石だ。大小の岩が眼の前を通過していった。身を壁に押しつけ、やり過ごすほかない。全員の無事を確認した時、指先が微かに震えていた。恐怖であった。

三ピッチはⅣ級、四十メートルの草付きスラブからフェースへ。傾斜が増し、足元の草が滑る。ホールドを慎重に見極めながら体重を移した。四ピッチはⅢ級、四十メートルの草付きスラブを右上する。傾斜は緩むが、湿った草付きは油断ならなかった。

五ピッチは二十メートルの短いフェース。手足が揃い、リズムよく越えた。六ピッチはⅣ級、四十メートルのルンゼ。これが手強かった。壁全体から水が染み出しており、ホールドを掴むたびに指先が滑る。岩面にはハーケンが連打されており、幾多のパーティがここで苦労してきたことを無言で伝えていた。ソールを信じて足を置き、慎重に重心を移す。落ちるわけにはいかない、という意識が体を強張らせる。それを意識的に解きながら登った。

七ピッチはⅣ級、三十メートル。ルンゼ状の地形だがチムニーの感触はなく、フェースとして向き合うほかない。手足を置ける場所を探しながら、じりじりと高度を稼いだ。この二ピッチがこのルートの核心であった。

最終八ピッチはⅡ級、八十メートルの草付き。右手でブッシュを掴みながら体を引き上げる、腕に頼った登りが続いた。グレードの数字より消耗する。それでも稜線が近づく確かな実感が、脚を動かし続けさせた。

登攀は午後三時頃、トップアウトを迎えた。


第三部:石楠花尾根を越えて、長い下山へ

稜線に出ると、視界が一気に開けた。谷川の双耳峰が西の空に浮かんでいる。達成感と呼ぶにはあまりに淡々としているが、確かな充実がそこにあった。

下山は藪を漕いで石楠花(シャクナゲ)尾根から堅炭(かたずみ)尾根を経て中芝新道へ接続する計画だ。しかし廃道となって久しい中芝尾根は藪に埋もれ、踏み跡も定かではない。低木の枝が顔を打ち、傾斜のある斜面で足元は不安定だった。消耗、という言葉が頭に浮かんだ。

芝倉沢を下り、登山道に復帰したのは午後七時前。そこからヘッドランプを灯し、谷川岳インフォメーションセンターに戻り着いたのは夜八時三十四分。出発から実に十七時間の行程であった。

疲労困憊の六名に駐車場での風呂なし野宿という選択肢は重くのしかかった。深夜からの降雨予報もある。誰ともなく「土合山の家」の名前が挙がり、奇跡的に空室があった。遅い時間にもかかわらず、宿の方はお風呂まで提供してくださった。清潔なシーツと温かい湯に、長い一日の疲れが溶けていった。

幽ノ沢らしい花崗岩の摩擦と、容赦なく降り注いだ落石、そして廃道の藪漕ぎ。六月のアルパインを、骨の髄まで味わった二日間であった。


記録

  • 日程: 2024年6月22日(土) 日帰り
  • 宿泊: 土合山の家(素泊まり)
  • メンバー: 6名(私、T、S、F、W、N)
  • 山域: 谷川岳・幽ノ沢(群馬県)
  • ルート: 谷川岳インフォメーションセンター → 幽ノ沢出合 → V字状岩壁右ルート登攀 → 石楠花尾根 → 堅炭尾根 → 中芝新道 → 芝倉沢 → 登山道復帰 → インフォメーションセンター
  • 行動時間: 山行16時間20分 / 休憩0時間40分 / 合計17時間00分
  • コースタイム: 3:34 スタート → 8:00 取り付き → 15:00頃 トップアウト → 19:00前 登山道復帰 → 20:34 ゴール
  • 天候: 晴れ後曇り(翌日未明から雨)
  • 距離: 15.2km / 登り1,043m / 下り1,042m
  • スタート地点: 福島市内 → 谷川岳インフォメーションセンター駐車場
  • 装備: ラバー沢靴、ザイル、ハーネス、カラビナ類、ヘルメット、ヘッドランプ
  • ピッチ情報:
    • アプローチ 幽ノ沢を詰め、カールボーデンから水俣リンネ方向へ
    • 1・2P Ⅲ級 60m 要のテラス(T2)へのトラバース(クライムダウンあり)
    • 3P Ⅳ級 40m 草付きスラブ〜フェース(直上、右の方に見える残置は無視)
    • 4P Ⅲ級 40m 草付きスラブを右上(これもほぼ直上)
    • 5P Ⅲ級 20m 短いフェース(ルンゼの入口へ)
    • 6P Ⅳ級 40m ルンゼ(残置は腐る程ある)
    • 7P Ⅳ級 30m ルンゼ状フェース(右端の灌木を利用すると良い)
    • 8P Ⅱ級 80m 草付き(クライミングシューズだと滑る)
    • 下山 石楠花尾根から堅炭尾根を経て(岩稜は全て左巻き)中芝新道へ
  • 難易度: ルートグレード3級、ピッチグレードⅣ級
  • 核心部: 6・7Pルンゼ
  • 注意点: 雪渓崩壊に注意(5-6月は特に)、先行パーティからの落石、中芝尾根は廃道で踏み跡不明瞭
  • 推奨時期: 6月中旬〜9月(残雪状況を要確認)

立ち寄りスポット

群馬 谷川岳・土合山の家[公式]


Download file: yunosawa-v-jiyouganpeki-migi-route.gpx

【GPSデータ利用上の注意】

本記事で公開しているGPSデータは、あくまで当日の記録です。以下の点にご注意ください。

  • 岩質や岩場の状態は天候や季節により変化します
  • 残雪や凍結の有無により、ルートの難易度が大きく変わります
  • クライミンググレードはあくまで目安です。ご自身の技術レベルを正確に把握してください
  • 中芝尾根は廃道です。現在の状況は当日の記録と異なる場合があります
  • GPSデータはあくまで参考情報です。ご自身の技術・経験・体力を考慮し、慎重に計画を立ててください
  • 不安がある場合は、経験者と同行することを強くお勧めします
  • アルパインクライミングは自己責任の世界です。安全第一で楽しんでください

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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