【山岳紀行】

【山岳紀行】須金岳南面・ミテノ沢 ー 名もなき渓の素顔

北村 智明

六月の末、W台風と梅雨の晴れ間を縫って神室山地の南端へ向かった。地元でミテノ沢と呼ばれてきたこの渓を、仲間の五人と共に遡る一日となった。滝が多く、登攀要素の高い沢だと聞いていた。東北百名山に名を連ねる須金岳(標高1,253m)の南面に落ちる、寒湯川の支流である。地形図にその名はない。それでもこの渓は、半世紀以上にわたってそこに流れ続けてきた。


第一部:仙台を発ち、林道へ

仙台を早朝に発った。東北自動車道を北へ走り、古川インターを降りて鳴子温泉郷へ向かう。梅雨の晴れ間は東北限定の予報だった。車窓の空は青く、田植えを終えた水田が朝の光を受けて輝いていた。2026年も全国的に熊の出没が相次いでいた。この山域も例外ではないと、出発前に確認していた。

鳴子を抜け、荒雄川沿いに車を進める。装備を整えた。ハーネスを着け、ヘルメットを被りザイルを仕舞う。幾らか進むと道の脇に熊の糞が落ちていた。まだ新しい。仲間たちと顔を見合わせ、声を大きくしながら先へ進む。林道はやがて細くなり、杉の暗い植林帯の中を縫うように延びていった。

須金岳登山口の手前、支流に架かる小橋のたもとで藪になる。晴れてはいるが気温はまだ低く、沢の冷気が腕に触れた。六人が揃ったところで沢へ降りた。

入渓してすぐ、苔に覆われた砂防ダムが現れた。その壁面に刻まれた文字に目が止まる。「ミチノ沢砂防ダム工 昭和53年着工 昭和54年完成」とある。地形図にはいかなる沢名も記されていないが、江合川砂防工事事務所の指定台帳には「ミチノ沢」として正式に登録されているという。

ミテノ沢と呼び慣わされてきたが、行政上の正式名称はミチノ沢である。ダムがその事実を、半世紀近くにわたって無言で証してきた。山に入るたびに思うのだが、こうした名前の二重性には、土地と人間の長い関わりが滲んでいる。

しばらくは倒木が散乱した荒れた河原が続いた。歩きにくい。朽ちた幹を跨ぎ、滑りやすい石を踏みながら遡る。水量はやや多め。前日までの雨が影響しているのだろう、流れは濁りこそないが勢いがあった。足元を選びながら進むと、やがて渓相が引き締まってくる。両岸の壁が迫り、水の落ちる音が大きくなった。

f1 5m滝

第二部:滝群の遡行

中流部に入ると、沢は本格的に牙を剥いた。高さのある滝が次々と現れ、登攀要素が増してくる。直登できる滝が多く、それがこの沢の楽しさを支えていた。水を被りながら岩に手を掛け、身体を引き上げる。ただし滑る。ヌメりを帯びた岩に足を取られる場面が少なくなく、慎重さを要求される局面が続いた。一手一手を確かめながら登る、その緊張感がいい。

2段10m滝下段

今日が沢登り初めてのSは、一つひとつの通過に真剣な顔をしていた。滝の取り付きで足場を探し、腕の力を使って体を持ち上げ、落ち口に這い上がる。その一連の動作を自分の力でやり遂げた瞬間、Sの表情が僅かに緩んだ。その顔が緩む瞬間を確認しながら、次の行動を判断する。経験の差はあれど、沢という場所が人に要求するものは同じだ。自分の身体で、今ここの岩と水に向き合うことである。

2段10m滝上段

核心は3段40mの滝だった。水が三段を踏んで勢いよく落ちるさまは、白い布を幾重にも垂らしたようで壮観だった。しかし今日は登攀の対象ではない。

3段40m滝は右岸高巻き。

右岸を大きく高く巻く。急斜面の灌木が纏わりつき、足元が不安定な箇所が続いた。ここだけが今日唯一の巻きとなった。

10mナメ滝

滝の落ち口へ復帰したとき、眼下の流れが遥か遠くなっていた。高度を稼いだことを、身体よりも先に目が教えてくれた。

8m滝?は階段状ヌメヌメだった

再び滝が現れる。直登できると判断すれば取り付き、無理であれば見極めてへつりで抜ける。六人がそれぞれの方法で通過していく。声を掛け合い、時に手を貸し合いながら、遡行は続いた。

標高1,150mを超えたころ、水が消えた。沢床が乾いている。伏流だ。水の失せた沢形をしばらく辿ると、それも途切れた。空を覆っていた木々の梢が後退し、空の青みが増してくる。ここから詰めに入る。


第三部:詰め、稜線、熊の気配

ルーファイをミスしなければ簡単に抜けられる

沢形が途切れた先は、硬い笹の密藪だった。背丈を超える笹が隙間なく行く手を埋め、容易に進めない。茎が太く、押しても簡単には倒れてくれない。全員で身体ごと押し分け、藪を漕ぐこと10分、稜線へ抜けた。

視界が一気に開いた。南西の空に、栗駒山(1,627m)の丸みを帯びた山容が浮かんでいた。秋田・宮城・岩手の三県にまたがる二百名山であり、「花の百名山」にも選ばれたこの山が、梅雨の晴れ間にだけ許される遠望の先に立っていた。北から南へと連なる神室の山並みが、青みがかった稜線を幾重にも重ねている。「みちのくのアルプス」と称されるその姿を、しばらく黙って眺めた。

須金岳の本峰(1,253m)は深い藪の奥に沈んでおり、通常は踏むことができない。かつて9合目に仮の山頂標識があったというが、今はその痕跡もない。頂を踏まずに稜線を後にすることへの後ろめたさは、不思議となかった。この山は今日、沢でこそ味わうものだったと思う。

下山は一般登山道だが渡渉もある

寒湯尾根の登山道を下山に使った。林道が近づいたころ、道脇に桑の実が黒く熟れているのが目に入った。熊の好物だ。そう思った瞬間、藪の中で重量感のある動きがした。ゆっくりとした、しかし確かな気配。仲間と声を出し合いながら、足を速めた。朝の糞の主と同じ個体かどうか、知る術はない。

カレーライスは1200円だった

林道に降り立ち、装備を解いた。下山後は鬼首温泉の銭湯「目の湯」で汗を流し、スパイスカレー店「ザビのカレー」で夕食をとった。選んだのは、チキンキーマとチャナチキンの二種である。美しく黄金色に染まったサフランライスを中央に、運ばれてきた一皿から立ち上る幾重にも重なるスパイスの芳醇な香気は、それだけで酷使した身体を心地よく覚醒させるようであった。キーマの緻密な肉の旨味と、チャナチキンに潜む豆のふくよかな滋味が、サフランの仄かな香りをまとった米粒と絡み合い、口の中で奥深い調和を奏でる。口に運ぶたび、尖りのない、しかし深みのある辛みが、冷たい飛沫に晒され続けた五臓六腑にじわりと染み渡っていく。過酷な山行を終えた一日の終わりに、これほど贅沢な労いはない。

ミテノ沢は、名前を持ちながら地形図に載らぬまま、ずっとそこに流れていた。滝も、ヌメりも、藪も、熊の気配も、半世紀前の砂防ダムも、すべて揃って待っていたように思う。そういう渓が、まだ東北にはある。


記録

  • 日程:2026年6月28日(日)日帰り
  • メンバー:6名(私、S、S、S、M、S)
  • 山域:神室山地・須金岳南面(秋田県・宮城県県境付近)
  • 沢名:寒湯川支流 ミテノ沢(通称)/ミチノ沢(行政正式名称)
  • ルート:寒湯沢林道 → 支流橋より入渓 → ミテノ沢遡行 → 寒湯尾根稜線 → 寒湯尾根登山道 → 出発地点
  • 行動時間:9時間01分
  • 距離:10.2km
  • 累積標高:登り1,045m・下り1,045m
  • 天候:晴れ
  • 水量:やや多め
  • 難易度:遡行グレード2級上(6名・経験者初心者混合・やや多め条件)
  • スタート地点:仙台 → 寒湯沢林道入口
  • 装備:沢靴(ラバー)、ザイル、ハーネス、カラビナ類、ヘルメット
  • 核心部:3段40m滝(右岸高巻き)、連続する直登滝、ヌメりのある岩
  • 注意点:熊の生息域。林道入口および下山時に痕跡・気配あり。標高1,150m以上は伏流・硬い笹藪漕ぎ(約10分)、キャプションの滝名は登山体系に準ずる。
  • 推奨時期:6月上旬〜9月下旬

立ち寄りスポット


GPXルート図

Download file: miteno-sawa-suganedake-sawanobori.gpx

【GPSデータ利用上の注意】

本記事で公開しているGPSデータは、あくまで当日の記録です。以下の点にご注意ください。

  • 水量は降雨や雪解けにより大きく変動します。当日と同じ条件とは限りません
  • 滝や釜の状況、岩のヌメり具合は季節や天候により異なります
  • 高巻きルートや核心部の通過可否は、その時の状況により判断が必要です
  • GPSデータはあくまで参考情報です。ご自身の技術・経験・体力を考慮し、慎重に計画を立ててください
  • 不安がある場合は、経験者と同行することを強くお勧めします
  • 沢登りは自己責任の世界です。安全第一で楽しんでください

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ABOUT ME
北村智明
北村智明
登山ガイド
日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージ2。ガイド歴10年。東北マウンテンガイドネットワーク及び社会人山岳会に所属し、東北を拠点に全国の山域でガイド活動を展開。沢登り、アルパインクライミング、山岳スキー、アイスクライミング、フリークライミングと幅広い山行スタイルに対応。「稜線ディープダイブ」では、山行の記憶を物語として紡ぎ、技術と装備の選択を語る。
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